東トイツに西トイツ

南トイツと北トイツがみんなアンコになれば、とか言うわけではない。
たまにはマジメな話でもしてみよう。
ちょうどベルリンの壁が崩壊して(という表現は嫌いなんよ。自動詞やから壁がひとりでに崩壊し始めたみたいやん。正しくは「ベルリンの壁が崩されて」とかやろ)20年。区切りの年ですなあ。今でこそ人ごとのように茶ぁでも飲みながら言うとるが、10年の時は、そらもうワシも必死のパッチやった。いや、10年の時は「10年になるのう」とのんきにかまえとったか。
ワシ、いちおう、ドイツの現代史なぞ専攻しとったから卒論とかいうもんを書いとったからな。もう内容は忘れたけど。なので、この時期になって、ベルリンの壁の話題が出ると思い出すんよ。今頃文献とかアッーアッー言いながら読んでたわな。
ところで、ロシアの人たちの半分ぐらいが東独とソ連の共産政権が壁を築いたということを知らないらしい。そら当然やろ。自国に都合の悪いことは教えない。日本でもそうやろ。特に太平洋戦争関連はかなり捏造して教えている。都合の悪いことは消して。書いたらアメリカからも中国朝鮮からも叩かれるから。日本政府はその辺に弱いからなあ。ポツダム宣言は無条件降伏じゃなくてちゃんと条件がついてるとか(そら当たり前よ。降伏条件のない勧告とかないやろ)、大虐殺関連とか(これは日中双方があることないこと言い合ってるだけのような気がするんよ。どっちもどっちというか)。正確なところは、たぶん誰にも分からない。全体が見えている人間なんておらんから。目の前で10人並んでるのが10人みんな嬲り殺されたら、そこにいた人にとっては「捕まったら全員虐殺対象」と思い込んでしまうし、それを指揮している方も、全体の数までは把握できるわけがない。とにかく多いというのは分かるにしても。
話を元に戻そう。共産政権が人民流出防止に壁を作ったとされている。これが西側での通説。当然、東側では野蛮な西側からの防衛のためとか別の理由をつけていたわけだが、それは行政レベルでの話。ベルリンの壁にまつわることとしてよく言われるのは、東西で一族が分離してしまったとか、そういうお涙頂戴悲劇。政治のせいで罪のない民衆が、という論調。ワシ、こういうのが嫌いでなあ。だいたいこういう話を持ち出してくるのは、自称ヒューマニストとかいうエゴイストで、1つか2つしかない話をいかにも全部がそうであるかのように風呂敷を広げて語りだす。もうこれが全てみたいな感じで。フェミニストなんかがそうなんやけど、これもワシは大嫌いである。それはおいといても、確かに一族が分断されたり、そういうことはあったにしても、当時の史料をみていくと、意外にも東西両方の市民のかなり多くが、この壁の存在について肯定的というのか、否定的には捉えていなかった。西側としてみれば、東側もまぜこぜにすると、これはもうその当時でも生活格差というのがけっこうあった。もちろん貧しかったのは東側で、それと一緒にされたら自分らへ回ってくる資金や食料・生活資材なんかが目減りしてしまう。東側とすれば、西側はかつての敵国。意地もあるし、そもそも洗脳が解けていない人らにしてみたら、そんなんソ連の後ろ盾があるのに何で米帝に屈っしなアカンねんみたいな。
そういう一般市民の意見っちゅうのは、たいがい「歴史」として教えられる際には切り捨てられる。それこそが「歴史教育」の本質で、何が正しいかとか、事実はどうであるとか、そういうのは「教育」の場では絶対に為政者の都合のいいようにしか書かれないのである。というよりも、ある面からみれば、それも事実だが、事実というのは1つではなく無数に存在するものなのである。例えば、今、ワシがこの駄文を書き散らしている瞬間にも、日本の歴史は動いている。これは表現が曖昧やね。日本の政治の歴史は動いている。鳩ポッポが何か行動をしている。誰それ大臣が何某と会食しながら密談している。あるいはアメリカの要人と日本の外交官が会談している。全部が同時に起きてもおかしくはない。その裏で、どこそこの婆さんが犬のうんこにつまづいてこけて豆腐の角にアタマをぶつけて死んだとか、珍走団が抗争を起こしてDQNが何人か病院送りになったとか、そういうレベルの事柄も同時に起きているかもしれない。いや、間違いなく、人間が存在する数だけの「事実」が同時多発的に起こっている。でも、それを全て記述して体系化して「歴史」として教えることは不可能であるし、無意味である。だって、DQNが何人死のうが、ワシらの知ったこっちゃないもんな。
「歴史」というものは作られたものである。これがいちばん大事なことだ。「歴史」が作られる目的は、時の為政者が都合のよいように国民どもを導いていくための道標となることである。その目的に合致する事実だけが選ばれて、時には作り変えられて「歴史」として記述される。ベルリンの壁にしても、西側では「あれは『非人道的な』東側諸国が民衆から移動の自由を奪うために作った」とするし、東側では「西側の『不正な』攻撃に備えるため」とする。その政府の価値観なしには存在しえないのが歴史記述なのである。であるから、冒頭のロシアで半分ぐらいが「東独政府が作ったことを知らない」というのは当たり前だと。ソ連時代の教育を受けてきてる人が多いんやから。ヘタをすると「お前らはそんなことを知る必要はない」と壁の存在すら教えられないまま来ているかもしれない。
ここでワシが最も怖れることは、今の日本でも同じようなことは起こりうるということ。何も東京の壁ができるとかそういうことではなく、政府の都合のいいように教科書が変えられていく(というより元々存在している教科書自体も都合のいいとこだけやわな)。そして、過度に「中国や韓国をはじめとするアジア諸国民の皆様、戦前戦中に日本が行ってきたことは全てあなた方のおっしゃるとおりです。お詫びに何でもいたします。それが我々の友愛です」とやられてしまうこと。いや、大袈裟かもしれんが、大なり小なりこれに類することは起きると思うよ。売国というか、卑屈になりすぎるというか。全く認めないというのも極端やけど、全部私どもが悪うございましたというのも違うわな。
自らそういう道へ進んでいく方々は止めないが、全国民をそこへ巻き込むことだけは止めてほしいと思うんよ。大半の日本国民はそんなもん望んでないやろうから。