いろいろ

そんなわけで帰ってきて早速、ネットを捨てるべく、映画を観にいった。とにかく何でもいいから観てみよう、観て足しになるかならんか考えたらいい。なので題材は何でもよかったんよ。それこそ別に映画でなくてもよかった。
まずタワーへ行ってunderworldの新譜を買う。(実はこれが本来の目的。)それで腹ごしらえをしてちょうどいい時間にやっている映画を。運が悪かったらAチームを観る羽目になる(笑い)。何か考えることがあるんやろうかと不安になる。意識したわけではないが、ちょうどAチームは始まったところでなあ。無理やり観ようと思ったら、まだ予告編やってるから間に合うんやけど、そこまでして観なくてもよろしい。
で、次のが「Colorful」。ほとんど何も考えんかったね。一応、我が社も名前が出ているので観ておいて話題にはできるやろうと。ところが、案外よかった。ほとんど何も期待していなかったせいもあるが、考えるネタにはなった。
決定的にダメなところは、いろいろある。
配役もそう。お父さんの声を聞いていたら、そのうち、「坂本さぁ」とか言い出すんではないかとハラハラした。(なわけないか。)あるいは、どこの関東人に関西弁の台本与えてるんやというぐらいに不自然なセリフとか。でも、そこはご愛嬌。
ストーリーも、なぜそこで世田谷区の、玉電の、詳細な歴史記述になるか。それなら別の映画を作って記録映画にしたらええやないか。それぐらい不自然に長々と埋め込まれている。というより浮いている。「昔の風景はこんなだった。そして、昔の家族や学校というのは…」と結び付けたかったんかもしれんが、いらんやろ。客観的にみて。まあ、そこもご愛嬌。
根本のテーマは、これは響く。要するに人間の絆というところやろうけど、これを自ら探し出していく過程を描いてみせたわけだ。そしてその過程こそが主題でもあったりする。
人間は苦しむ。他人を傷つける。だけど、そこから逃げてはいけない。話をすることで少しずつだが他人を理解していく。そして他人に理解してもらえるようになる。ここで対話を持たなければ分からないまま終わってしまうのだ。現代の諸問題の多くは、ここで「めんどくさいから」「どうせ分からないから」と試みる前からあきらめてしまうことにある。それがしょっぱなのセリフでもあるわけだ。やってみなきゃ分からない。逆に行動をしてみれば案外うまく回るもんなんですよ世の中っていうのは。そして、他人を分かろうとする、他人に分かってもらおうとする流れの中で自分がどういう人間なのかを発見する。そういうことを言いたいわけだ。大筋では。(細かいことはネタバレにもなるし書きませんよ。)
自分にあてはめてみる。反省する。いかん。いかん。これではいかんではないか。何かにつけて「めんどくさい」「オレはしない。しんどいもん。」で終わらせているではないか。他人を批判できた身分ではない。もうそれだけで十分ですよ。そこで自己嫌悪に陥らずに、自分を変えていってみよう。変えることはできるんですよ。と。
乗せられたわけではないが、映画をみて、本を読んで、考えるというのはこういうことでいいんだよな。何も背伸びして「ここの表現はどうの」とか「その展開の仕方は現実的に考えてありえないことではないだろうか」とか難しいことを考えなくてもいい。そういうのは木を見て森を見ないという諺どおり。ご愛嬌だといって笑って済ませればいい。森の全体像が見えたところで、あらためて木を1本ずつ検討していったらよかろう。でも、常人にはそこまで手が回らないですよ。そう何回も同じ映画を観るわけでもないし。
終わった後でヤホーのコメントとか観てるとそんな「俄批評家」ばっかりでゲンナリする。最も酷いのはそのコメントを眺めただけで「こんな評判だったらよほど酷いんだろう。観てないけど」とか。お前、書き込むなよって。せめて1回は観てから書けと。そういう連中にはぜひ観てほしい1本。
今は多いんよな、実際に経験もせずに読んだり聞いただけで実体験したようなしたり顔で語る輩が。映画ってのは読むもんではなくて観るもんだろうが。