暇にまかせて

本屋でぱらぱらっと立ち読みをしてきた。少し前から「阪急電車」というのが話題になっているが、気になっていたのでのぞいてみたのだ。
今津線の各駅ごとにエピソードをつづった短編の連作で、イメージとしては10話ぐらいで完結する漫画。それも「頭文字D」ぐらいの分量の1回あたりのページ数がものすごく少ない作品。
実は似たようなことをワシも15年ほど前に考えたことがある。井の頭線の各駅ごとにオムニバス仕立てにしたものを書いてみたらどうだろうと。ところが、各駅ごとにストーリーを組み立てるのは非常に難しいのである。井の頭線なら渋谷駅はいくらでもネタを作れるが神泉駅はどうやってもホテル街しか出てこない。(実際にはそんなことないが。)東松原駅でどんなエピソードが作れるというのだ。と、話を膨らますことのできる駅とそうでない駅とが出てきて、全体としてバランスが悪くなってしまうのである。かといって、この企画は全駅を含まなければ意味がない。急行運転では味が出ないのだ。
その点ではうまく書き上げているなあと思ったが、別にこの駅でなくてもいいんじゃないのというのもあった。無理やりそこへねじこんだというのか。
全体的にものすごく薄っぺらい。1駅ごとの紙数が少ないこともあるが、その少ない紙数に好いたの嫌いだのということがずっと書かれていて、要するにちょっと変わった体裁のラノベでしかないのだ。ラノベ好きな方には一読を薦めるが、1回読んだらごちそうさんとなるやろうね。
いいか。小説というのは使い捨てではない。1回読んだらおしまいではない。読めば読むほど味の出てくるものなのだ。本来は。ストーリーを読ませるだけのものはその場で面白くても2回目を読もうとは思わないだろう。そんなんではいけない。譬えるなら、レンタルで借りてコピーして1回聴いたら終わりのJ-POPみたいなもんなんだ、ラノベというのは。流行に合わせて口当たりよく作られて、すっと耳には入ってくるが、すっと耳から出ていって何も残らない。はっきりいうと、壮大な時間の無駄遣いだわな。ある意味贅沢な時間の使い方と思う。
小説というのは、読んで、考えて、自分の思考回路に何らかの影響を及ぼすようなものであるべきだ。知識をつけるためのものでもよいし、人生について考えるのでもよいし。もちろん、ラノベといえど、そこから何か考えるかもしれないが、それならそれでよいとは思う。(が、大多数はストーリーに無理やり泣かされて感動した気になって10分後には泣いたことすら忘れてしまうのだ。)何かについて考えさせるきっかけを作るのがよい小説であると個人的には考える。
同じ10ページかそこらの内容でも、芥川の作品と比較してみたら分かるだろう。誰を好きになったのとかいうことで終始してしまうのと、人間存在のあり方について問いかけるようなものと。読者に考えさせるという意味ではその深さは三番瀬マリアナ海溝ぐらいの差があるのではないか。単にページ数が少ないからといって内容が薄いというわけではないのだ。要はその組み立て方であり、ページ数が少ないのに余計な説明を入れたり、会話だけで筋を展開していくというのが無理なのである。どうやったって掘り下げられるわけがない。これをページ数だけみて「本を読んだ」という気になれるのなら何て世の中は太平なのだろう。
と、まるでこの作品だけが悪いように思えるかもしれないが、最近の売れ筋の本の中ではマシな方だとは思う。年間10冊も20冊も新刊を書いている方など、同時に10以上の思索に耽ることのできる大天才でなければ、ゴーストライターがいるか、中身は何にもないかのどちらかで、後者であればそんな本を売ることが詐欺でしかない。それでも活字を読むという習慣を持たせるという点ではまだしも有益なのかもしれないが、そのレベルのものしか理解できないピーマン頭の人間を粗製濫造されても困るわけである。彼らのピーマン頭に何とかして挽肉を詰めてやることが現代作家の大きな課題の一つではなかろうか。
と、ラノベ1冊をぱらぱらとめくってみて考えてみた。