帰省して、よく読んだ。
先日、神田の古本屋を歩いていて拾った岡本綺堂を読み通した。
率直なところ、個人的には肌に合わない。終わった後が気持ち悪いのである。
例えば、表題作の「修禅寺物語」。肉親の情よりも芸術的な美が勝ってしまう幕切れには違和感がある。(もちろん芝居をみればそれなりに形にはなっているのだが。)「箕輪の心中」や「佐々木高綱」には救いがない。
どうしてすっきりしないのか。おそらく、ヒーローが不在だからだろう。勧善懲悪でなくとも、芝居、ことに歌舞伎のような型のある芝居では、ヒーローが登場する。それは単純にかっこよかったり、男気があったり、大悪党であったりするが、劇中に為所があり、それを観客にみせる。すると見物の方はワッとなるのである。由良之助にしても、助六にしても、弁天小僧にしても、「ここで魅せて」という場面があり、極端な話、それだけを観に来る見物だっているわけだ。
ところが、綺堂の場合、それがないか、あっても暗いのだ。「修禅寺物語」の狂ったような最後は言うに及ばず、「箕輪の心中」は同じ心中物でも近松と比較するとどうも理詰でしっくりこない。情緒にやや劣るというのか。
「正雪の二代目」などは、登場人物がみな小者で、伴左衛門は悪事が露見することをひどく気にしてせこいし、千島はその悪事を知って正そうとするのかと思いきや唯逃げるだけだし、強請りにきた甚作もわずか40両を得ようかというだけであっけなく捕り物の巻き添えになってしまう。そもそもその捕り物は悪巧みに気付いた千島や長七の告発かと思いきやそうでもないようで、勝手に話が進んでいっていつの間にか終わってしまうという味気なさ。演る方だって見せ場がないじゃないか、この程度の小悪党では。
これが新歌舞伎だと言ってしまえばそれまでだが、同じ江戸末期、明治期の作者でも南北や黙阿弥と比較すると物語のスケールという点でずいぶん見劣りしてしまう。
あくまで、個人的な感想ではあるが。