消化吸収中。価値基準としての古典

 京都で買ってきたCDを順番に消化中。聴いていて意外にも一番楽しかったのはアイク・ケベック

Heavy Soul

Heavy Soul

 1曲目「Acquitted」と3曲目「Que's Dilemma」はマイルス・デイヴィス「Milestones」かと思った。そこから全く違う展開をみせる。ケベックのソロは勿論だが、フレディー・ローチのオルガンがノリを加速させる。ジミー・スミスもそうだが、ハモンドオルガンほどジャズに合う楽器もない。ジャズのために生まれてきたようなものだ。他の電子楽器と違って優しい音色を奏でるし、そもそもの出自からして黒人ジャズにピッタリだ。「さあ聴くぞ」と気を張らないで自然体で聴ける。
 ソニー・ロリンズAlfie」は、異色やからな。一回見てみないと。映画とかも。
 綾戸智絵は一時、テレビに出過ぎていたのであまり好きではなかったが、「For All We Know」を素直に聴けばなかなか渋いじゃないか。積極的に聴いていこうという類のものではないけれども、テレビに露出していたイメージは完全に覆された。上原ひろみとかもそうだが、テレビで取り上げられることに多いアーティストに関してはそのイメージに囚われずに、一度、音楽を聴いてみないと分からない。今のテレビは特にバラエティ番組はホンマしょうもないから。どうでもいいようなことばっかり流して本質には触れない。もう自分で確かめるしかないよ。
 ソニー・クラークDial S for Sonny」は、良くも悪くもソニー・クラーク。胃がもたれることもないが、腹一杯になることもない。「Cool Struttin」もそうだが、決して拙くはないけれども優等生的で面白味に欠ける。あまりアクがなくって強烈なインパクトは残らない。同じSonnyでもロリンズの方が断然、面白い。競馬に例えればシンボリクリスエスのレースは必勝だがあまりに正攻法すぎて印象に残らない、引退レースの有馬記念を除けば。だが、G1を勝っていなくてもツインターボみたいな異色の存在は鮮烈な印象を与える。ファンが多いのも後者のようなタイプだ。趣味はやっぱり楽しくないと。
 残りはこれから。先に昨日買ってきた第九の2枚を聴いてもた。フルトヴェングラーのは本当によかった。名演と呼ばれるだけのもので、先日のウィーンフィルのも良かったがそれよりも音が生き生きとして聴こえる。次に朝比奈隆N響を聴いてみた。こちらは柔らかさがあり包まれるような演奏。音楽としての面白さではこちらの方が気に入った。しかし、学校教育の音楽の授業というのも罪作りだ。「所詮、生徒には分からない」と思ってか、どうでもいいようなのを聴かされていた気がしてたまらない。同じベートーヴェンでも指揮者、オーケストラによって全然違う音楽になるのに。贅沢を言うと、音響システムもだ。チャイムを鳴らすスピーカーからベートーヴェン鳴らされてもなあ・・・。価値判断の基準になるものは良質の物でなければならない。悪いものと比較すればあまりよくないものでも良く感じてしまうからだ。江戸幕府の政策として「上見て暮らすな、下見て暮らせ」と士農工商の階級序列が作られた。基準を上の武士階級におくのではなく下の町人階級におき、それと比べたら自分たちはよく見えるだろうというゴマカシ。だからこそ、今、「古典」と言われるものにできるだけ触れようとしている。「時代」といういくつものフィルターで濾過されてきた良質のものだけが現代まで「古典」として残されているのだから。