限りなく不透明に近い村上龍

 昨日に引き続き、石川忠司「現代小説のレッスン」。

一章 ガイドの「足」としての文学

 この章は村上龍を中心に進められる。僕は村上龍はあまり好きではないので「限りなく透明に近いブルー (講談社文庫)」と「69(シクスティナイン) (集英社文庫)」ぐらいしか読んだことがない。いずれは「コインロッカー・ベイビーズ」ぐらいは読もうとは思っていたけど。幸いなことに「限りなく透明に近いブルー (講談社文庫)」から話が進められるので比較的理解は早かった。
 要約すれば、村上龍の採った手法は、「人間の内面と<知覚作用>を分割し、スムーズに物語を展開させること」。主人公はカメラとして場面の状況を映し出す。これが<知覚作用>の働きで、そうすることで物語の連続性を損なうことなく「描写」が行われる。石川忠司はこれを「ガイド」と呼ぶ。つまり、主人公が読者に対して場面の状況を案内しているということだ。反面、「内面」「思弁的考察」などに対する言及は少なくなり、しかも「オヤジくさい説教」として欠点ともなっている。
 僕が村上龍を好きでない理由はそこにある。作品としての底の浅さ。主人公と一緒に物語の世界を旅するだけで、言うならば、「虚構の世界の歩き方」だ。情報が満載で世界を見るだけなら便利この上なく日常に退屈している万人にはウケがいいだろう。だが、そんなものは読み捨てのくだらないものだ。音楽に喩えればエイベックス。リリースから何週間かは爆発的に売れるが、数ヶ月もすると忘れ去られてしまう。それだけ心に残るものがないということだ。「オヤジくさい説教」もただの一般論でしかなく、ことによれば夕刊フジの受け売りと何ら変わることはない。
 まとめると、村上龍の文体の長所は「物語の連続性の回復」であり、欠点は「連続性を意識するあまり内面への言及を切り捨ててしまい、何が言いたいのか不透明」であることだ。
 同様な切り口の作家として挙げられている高橋源一郎金原ひとみも趣味じゃない。やっぱり「底が浅い」か「何が言いたいのかわからない」からだ。金原ひとみ蛇にピアス」は確かに主人公の純粋さは巧く表現できているだろうが、結局は流行りの「純愛」に終始する。「健康」であり、読んだ直後は心を打つかもしれないが喉元を過ぎればというヤツだ。高橋源一郎に至っては奇をてらいすぎて空回りしている。競馬物のエッセイの方が面白いのは、小説家としてイマイチだからではないだろうかと僕は思うのだ。

現代小説のレッスン (講談社現代新書)

現代小説のレッスン (講談社現代新書)