働かない頭で読んでみたので誤読とか支離滅裂とかは気にしないで

 石川忠司「現代小説のレッスン」について話をするのはもう十何回目かになりますが…

三章 村上春樹と純粋なメランコリー

 余り頭も働いてないのでいきなりズバリやなというところから。村上春樹本人はホップのアフォリズム、デタッチメントとして次にステップ(物語を語る)、ジャンプ(コミットメント)といきたいということだが、最初からデタッチメントがなかったと石川忠司は指摘する。直子の死というメランコリーからデタッチメントへつながるのではなく、「僕」は世間から背をそむけているつもりでも世間は「僕」を注視している。初期の作品群が背を向ける「僕」であるのに対して「羊をめぐる冒険」「ノルウェイの森」辺りからは僕も世間を向き始めることで世界が広がり、「ねじまき鳥クロニクル」に至って時代をも超越していく世界とのコミットメントの広がりの過程であるということだ。
 「風の歌を聴け」「1973年のピンボール」「羊をめぐる冒険」「ノルウェイの森」あるいはその元になったと言われる短編「蛍」、この辺りまでは明らかに「直子」の存在が何がしか「僕」やあるいは作品そのものに少なからぬ影響を及ぼしている。「ノルウェイの森」で一応のところ「直子の死」については片付いたように見えるが、それは序曲に過ぎない。メランコリーはさらに深まる。「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」は心の喪失感、「ねじまき鳥クロニクル」は妻の、あるいは人生そのものの喪失感が色濃く漂う。
 メランコリーから背を向けるだけでは何も解決にならない。それは村上春樹本人もよく理解していたであろうし、だからこそ、次第に積極的にコミットメントする方向へと進んできた。ただその程度の相違だけのことである。僕個人の村上春樹作品の感想としては決して世間からデタッチメントしようと意図しているようには感じられない。むしろ強制的にデタッチメントされるように仕組まれている。「ダンス・ダンス・ダンス」にある一節だが、「僕」を始めとする登場人物は、いや、読者すらも、村上春樹の掌の上で「とにかく踊り続けるしかない」のだ。そういう意味ではたしかに「暴力的」だわ、村上春樹

現代小説のレッスン (講談社現代新書)

現代小説のレッスン (講談社現代新書)

 
参考図書
風の歌を聴け (講談社文庫)

風の歌を聴け (講談社文庫)

 
1973年のピンボール (講談社文庫)

1973年のピンボール (講談社文庫)

 
羊をめぐる冒険(上) (講談社文庫)

羊をめぐる冒険(上) (講談社文庫)

 
ノルウェイの森 上 (講談社文庫)

ノルウェイの森 上 (講談社文庫)

 
世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド〈上〉 (新潮文庫)

世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド〈上〉 (新潮文庫)

 
ねじまき鳥クロニクル〈第1部〉泥棒かささぎ編 (新潮文庫)

ねじまき鳥クロニクル〈第1部〉泥棒かささぎ編 (新潮文庫)

 
螢・納屋を焼く・その他の短編 (新潮文庫)

螢・納屋を焼く・その他の短編 (新潮文庫)

 
ダンス・ダンス・ダンス(上) (講談社文庫)

ダンス・ダンス・ダンス(上) (講談社文庫)