村上違いでエライ違い

僕のパニック障害を心配してくれて知人が村上龍の「五分後の世界」を読むと参考になるかもと言うてくれたので読んでみた。
違うねん! パニック言うても、パニクるのとは! だから、この病名、イヤなんよなあ。誰か何とかしてくれ!
主人公の小田桐がふとしたはずみで別の世界に迷い込んでしまい、そこは1945年8月15日以降も無条件降伏せずに地下組織として戦い続けている日本という設定。小田桐はわけのわからんまま対国連軍との戦闘に参加して何とか生き延びる。
で、その地下組織「アンダーグラウンド」で教育されているのは、「日本国民としての勇気とプライドを示していかなければならない。敵にもわかるやりかたで、世界中が理解できる方法と言語と表現で」。そして、ゲリラの本質は「生きのびることだけを考えること」だ。パニック状態になってもとにかく生きのびることを考える。最悪の状況は想定しない。
まあ分からんこともないよ。実際、悪いことは想像しないというのは当然やからね。悪いことを想像する、不安になる、予期不安、発作、さらに悪いこと(例えば死ぬのではないかということ)を想像する、という悪い流れは断ち切らなアカン。でも、そこはすでに克服できていること。勇気をもって病気に立ち向かっても、こっちの意志とは関係ないところで突然発作は起こるからなあ。寝てる時とかも。ましてや、余計なプライドなんかクソほどの役にも立たないのは半年ぐらい前から思ってたこと。プライドに固執せず、ありのままの自分を受け入れること。これは結構、勇気がいる。自分のプライドは捨てなければならないし、自分に起こっていることを現実として認識しなければならない。逃げてはいけないのだ。そういう意味では安易にクスリに頼るのもよくないのかもしれへんけどな。まずは悪い流れを断ち切ることから始めなアカンし、まあしゃあない。減薬する勇気だけ出せばエエやろ。
まあ、そういうのを抜きにして純粋に作品としてみてみる。矛盾が多い。「日本国民としてのプライド」って何や? 日本国民の優秀性か? 端々に出てくるアンダーグラウンドの先端技術の優秀さについての表現とか見てるとそう捉えられるんだが、それってナチスと一緒やん。劣る者は容赦なく抹殺してるし。そんなもんがプライドか? 相撲や柔剣道、能*1なんかやらない。世界で理解されるもの、サッカーとか陸上とかバレエとか。オッサン、日本の文化を馬鹿にしてないか? 
西洋文化>>(越えられない壁)>>日本文化 の図式。
だが、アンダーグラウンドの国民、それも司令官という上役が「アメリカの価値観のいいなりになる」ということがマイナスだと言う。
ヨーロッパ>>>>アメリカ ですかw
馬鹿馬鹿しい。日本の文化、能、歌舞伎、文楽などの伝統芸能は世界でも高い評価を受けている。マンガ、アニメも日本は輸出大国だ。一方で、欧米の文化も明治時代以降、相変わらず高い評価を日本で受けている。日本に限らず世界的にだ。近年では韓国をはじめとするアジア地域の文化も高い評価を受けている。要するに「何が一番」なんてのはナンセンス。それぞれの文化にバックボーンがあり、同じ土俵で評価するなんてのは、「2メートルの身長と100キロの体重とどっちがすごい?」っていうような比較と同じで比べようがないんよ。「大切なのは価値観や目的意識ではありません。もっとも重要なのは、生きのびていくこと、生存そのものです。」 陸上競技や音楽などで世界に自分たちの力を示すことは「価値観」によるものであり、それ自体が「目的意識」ではないのか?
また、純粋な日本人は26万人程度までに減少し、多数の日本人と諸外国人との混血児が連合国の政策により生み出されたことになっている。この混血児は「国民」にはなれず試験を通れば「準国民」として扱われる。だが、アンダーグラウンドには差別はないことになっている。差別を生み出すのは「勇気とプライドのないところに、結束と秩序を不自然に守るため」らしい。おかしいなあ・・・。若松というアーティスト(実ハ、アンダーグラウンドの中枢組織に属する主要人物)の提唱する「エイジアン・ポリリズム」は能とクラシックバレエを融合させた「文化の混血児」やしなあ。僕が文化について考えるのは、東洋、西洋とかポップ、ロック、クラシック、ジャズとかいうカテゴライズに縛られることのないもの、もし世界中どこでも評価されるとしたらそういうものではないかと考える。でも、世界中どこでも評価されるということが素晴らしいことではないしな。まあカテゴリーなんか人間が勝手に作り出した観念やし、ただの記号やし、そんなもんに縛りかけられてたらケツの穴の小さいモンしかできないのは確かやけどな。エエもんは貪欲に吸収する。伝統的な様式は保存すべきだが、そこに固執していては古道具と一緒でただの飾り物。生命を与えるにはプラスαが必要や。例えば、前出の「エイジアン・ポリリズム」なんかがそうや。そういう意味では勘三郎のやってることは意義のあることといえるな。
重箱の隅つつくようやけど、アメリカの価値観に冒されている現代の日本を批判するならこれらの点は致命的な弱点とちゃうか。幻冬舎文庫の解説で渡部直己氏が「何かを初めからもう一度やり直したくなる」と書かれている*2が、そう思う人もいるかもしれん。けど、僕に言わせれば小田桐という一人の平凡な人物の価値観の変化を綴った作品あるいは現代日本への批判としてしか受け取れない。やり直す、なんて考えない。全く考えない。一切考えない。
でも、「限りなく透明に近いブルー」に比べればずいぶんマシなものを書いてるとは思うよ。まああそこから成長してなければ日本文学界を代表する作家とは言われへんやろうしな。そういった綻びは看過して批判文学として捉えればまあエエ作品とちゃうか。知事賞でもやらんとな。グフフ…
ついでに。8月15日に終戦していなければ日本が現在の朝鮮半島になっていたはず。作中でもそうなっているが、そうなれば朝鮮の南北分断は起こりえない。おそらく中国かソ連支配下。南側だけ統治しても日本海ウラジオストクに大規模な港湾施設をもつソ連に押さえられているから孤立するだけやし、アメリカが南朝鮮を統治する理由がない。ソビエト崩壊は起こっただろうが、ゲリラを輸出するという現代の中東みたいに日本がなったかというと軍事拠点としての役割しか果たしえない日本が石油資源という世界経済のキーを持つ中東と同じになるわけがない。むしろ、朝鮮半島の現状に近い、あるいはドイツ型になっていただろう。つまり、旧ソ連区は貧困にあえぎ、アメリカ区はある程度の繁栄をみせているのではないだろうか。まあこのあたりは歴史IFの世界なのであれこれ言ってもどれが正解なんて分からへんけどな。少なくとも松代大本営からさらに地下2000mまで掘り下げられたアンダーグラウンドなんつうものを当時の日本の技術力で連合国にジャマされることなく作り上げることはムリやろ。発想はオモロイけど、何か考えが浅いな。

五分後の世界 (幻冬舎文庫)

五分後の世界 (幻冬舎文庫)

*1:第8章で「能っていうのは大昔の貴族や武士のものだろう」と書かれてらっしゃいますが、正確には中国から伝わった散楽と日本古来の田楽という農業の行事が融合して成立したといわれています。その後、発展して貴族や武家の芸能となりました。ちゃんと勉強してから批判してくださいねw

*2:ちなみに村上春樹氏の方はメッタ斬りですわw読者を楽しませ、安心させる「読物」って。W村上を両方とも手放しに素晴らしいと言える人ってやっぱり少ないんやろうなあ。