キリスト教って分からんわ

僕はロシア文学に対して偏見を持っていた。なんかこうコムズカシイ理屈を並べて堅っくるいしい展開とか。だから、読んでこなかった。偏見。例外はドストエフスキー「賭博者」。タイトルだけに惹かれた。博打がやめられまへんわーってのは共感できたw けど例外。
それから随分たってドストエフスキー地下室の手記」を読んだ。これがメッチャ面白い。全くの偏見やったわって思った。人間の思考はどんだけ理性的に考えようとしてもあっちこっちへ飛んだり矛盾したり、そういうもんよ。生々しいまでの作品。もう女郎は買い、放蕩しいの、無駄に見栄張ったり。不条理。書いてたらまた読み返したくなったので、そのうち。で、まあそういうことがあったので折があればドストエフスキーの他の作品とかあるいはドストエフスキーと並ぶロシアの二大巨頭トルストイでも読んでみようと思っていたら、大阪駅前ビル古書街の100円均一コーナーに落ちてた。

絶版本ですわ。あそこは店によっては本の価値がまるで分かってないのでものつんごい掘り出し物が出てきたりする。これもそう。1986年当時150円の本やからってことで100均に並んでたんやろうな。儲けモンよ。なかなか入手できるもんやないしな。前には「女殺油地獄・出世景清」の岩波文庫初版本が50円で落ちてた。まあ汚いけど。でも初版。はまぞうに発売日が出てへんわw 戦前やからなあ。
で、元に戻そう。「光あるうちに光の中を歩め」。タイトルはキリストの言葉に由来してる? のかな。読んだ限りではそう思えるけど、キリスト教のことはあんまり知らんしなあ。異色やからなあ。いっぺん見てみんと。聖書とかも。
プロローグにキリスト教の教えと実生活との矛盾に悩む老人達の議論があり、それに応ずるように本編が始まる。本編はキリスト教VS異教徒の議論で進められていく。主人公のユリウスが二度、キリスト教に帰依しようとしたまさにその時怪しいオッサンが現れて「キリスト教はまやかし」と説得してユリウスを引き止めるが、三度目はユリウスの決心が固く、制止を振り切ってキリスト教徒に混じり、人生の幸福を見つけるというキリスト教の絵本かなんかみたいなお話。まあ露骨よ。異教徒の怪しいオッサン(実は医者)のキリスト教への論駁。キリスト教は詐欺だ、あんなソフィストの言うことなんか信頼ゼロや。と言いながら、オッサンの論旨がソフィスト。それにまんまと騙されるユリウスも凡人。大木凡人。もう臭うんよ。くっさいわー。説教臭が鼻についてしゃあないで。こんなん朝の5時から宗教の時間で朗読しとけばエエんや。とか言ってると真摯なキリスト教徒に怒られそうw 決してバカにしてるわけではないんやけど、理想は理想。濱中の理想が右翼やけどなかなか守られへんのと一緒よ。現代で言うてみたらどこぞの超大国の大統領はキリスト教徒なわけやな。この作品の論旨からいけば暴力は暴力を生み出すだけ、汝隣人を愛せよ、さすれば救われん。と。どうかな? 暴力が暴力を生んでるのが現実。どうよ。堕落した神の子よ。手を差し伸べて愛せよ。盗人が欲すればそれを与えてやりなさい。そうすれば盗みをしないようになる。北の国が核を欲すれば与えなさい。そうすれば技術を盗んで隠れて生産したりしないから。うはははっははあああ。書いてて笑いが、
無理
理想としては素晴らしいんやろうけど、科学技術の進歩に思想や人間そのものが全くついていけてない現代においてはもはや意味なし。そこへ立ち返ろうと振り向いている間にも技術だけ一人歩きして遥か彼方までいってしまうわ。で、混迷。悪循環にはまって。戦争。不条理。万事スローテンポの19世紀までの遺物やな。
そもそも僕は、最後には「神」ってのが大っきらいなんや。原始キリスト教はともかく、中世以降のキリスト教世界における「神」ってただの逃げ口上やしな。困ったら「神のせい」。帰りたくなったら「神のお告げ」。ノーモア詐欺師!

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