強烈な一撃 ラッシュライフ

ラッシュライフ (新潮文庫)

ラッシュライフ (新潮文庫)

目の前に見えているのは真実か? 例えば、一人の美しく若い女性があなたの目の前にいます。あなたの目に映る彼女は真実の彼女か? 現実であることは間違いないです。よほど意識が混濁していなければ。現に見えているわけですから。だが、真実かどうかとなると、困ります。帰宅途中の彼女を尾行して、まあ、仮にマンションの部屋に侵入できたとしましょう。10分後、あなたの前には全く別の顔の女性が現れるでしょう。
結論から言えば、最初に見たときの彼女は真実であり、帰宅後の彼女もまた真実でしょう。真実は一つではないのです。
ラッシュライフ」、読んでいて「こんなの認めるか」とか「ワザとらしいんだよ」とか脳内で罵声を浴びせながら読みました。自分に正直になりたい。
僕は自分の負けを認めたくなかっただけなのです。最初の数十ページを読んですぐに気付きました。これは村上春樹が「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」でやったことをさらに進めたものだと。2つの異なる世界がやがて1点に収斂されていく、それが世界の終わり〜の展開でした。ラッシュライフは5つの世界が展開します。それが順番に描かれていきます。少しずつお互いのストーリーに接点を見せながら。
これは僕もずっと考えてきたこと。2つだけでなくもっと多くの筋を交錯させることで世界に幅が広がるだろうと。まあ僕ごときがおもいつくぐらいですから先に実践している人がいても当然といえば当然ですが。目の当たりにすると悔しい。
最初にフーリエのだまし絵があります。これが暗示していたんだなともその時に気付きました。違う筋に行ったはずなのにいつのまにかまた同じところに戻ってくる。ところどころにエサが撒いてあって、「そういえば」と前のページを繰ること数度。全てのストーリーがリンクしているのです。巧くできています。
さらに、後半まで読み進めていくと時間軸がずれていることに気付きます。ああ、これも僕が密かに考えていたこと。物事には原因と結果があります。原因があって結果が生じるわけで。結果は当然、原因にあらかじめ内包されています。逆に結果にも原因が含まれている。これが僕の考える因果関係。お互いがお互いを含んでいるということは時間軸を逆転させても成立することがある。そこに時間軸をずらすということが可能になる理由があるのです。この作品では5つのストーリーに原因と結果がちりばめられています。無駄はありません。ほとんど全ての描写に何らかの意味が含まれています。しかもフーリエのだまし絵のように1つずつ階段がずれているのです。
ここでいう階段は日付のことに他ならないのですが。これはラストの「好きな日本語をを書いてください」の外人さんのところではっきりと分かるでしょう。1日ずつずれています。まあ大方の人はここでズレについて気付きます。フーリエとの関係も明らかになります。気付かない人は字面を追ってるだけですね。それぐらい露骨です。極端に言えば、馬鹿でも気付く。ただ、途中では気付かない。少しずつ明らかになってきて最後に種明かしで「ああ」ってなるのです。手品ですね。
ただ、僕が考えていることとは若干ですが違いがあります。「ラッシュライフ」を読んでいて感じたことは「これはRPGだな」。 僕の先輩であり後輩であるという複雑な関係の知人に【牛乳の宴】さんがいます。この人の名言に「ファイファンなんか全然面白くない。せっかく育ててやったキャラがこっちの意志とは関係なく勝手に死んでいきやがる!」というのがあります。暴言ですね。でも、僕は妙に納得してしまいました。初期のドラクエは非常に自由度の高いゲームでした。例えば、レベル1装備なしで竜王までたどり着くとかそういうことが可能でした。もちろんクリアはできませんけれども。ところが、最近のドラクエファイナルファンタジーはストーリー性を重視してか、イベントを順番にこなさなければ先に進めなくなっています。暴力的に作者の意図する方に進められています。あらかじめエンディングへのレールが引かれていてその軌道に乗ってゲームを進めていく。プレーヤーに選択の余地はほとんどない。
ラッシュライフ」もそんな感じがします。全ての出来事は必然であり、全てはつながっている。これは作者が主張したかったことの一つでもあるとは思います。世の中は無関係に見えて実は互いに絡み合って成立しているんだと。その単純なモデルを表したのでしょう。
しかし、必然なんてことはほとんど存在しない。僕のモットー、人生は博打。これはそういうことなのです。麻雀で例えてみます。手牌14枚から1枚切り出さなければゲームは進行しません。ここに14通りの可能性が存在します。もちろん、セオリーが存在しますから実際にはもっと少ないのですが。それが2巡、3巡と積み重なってかなりの数の可能性が生まれてきます。途中で哭きが入ったり、リーチがかかったり。あるいは点数状況、局面。一体、幾通りの可能性があるのか? 分かりません。とにかくたくさんです。しかし、先ほども言いましたとおりセオリーがありますからある程度は数が絞られてくるのです。これが現実。ですが、これは必然ではありません。偶然、そういう状況ができあがった。それだけです。
グフフ…。まだまだ付け入る余地は残されているな。ちなみに、僕が同卓していて一番怖い相手はプロのような打ち回しの巧い人ではありません。ド素人です。なぜなら、セオリーを覚えていないので、可能性が絞れないからです。たくさんの状況を想定しなければなりませんし、到底、全てを想像することはできません。人生でもこういう人は存在します。代表的なのは子供。社会のルールを学んでいないのでどういう行動に出るかわかりません。他にもありますが、これはちょっと差し控えておきましょう。
とにかく、複数のストーリーが交錯する展開、時間軸のズレ。これはやられました。しかし、中盤までは「認めるか!」とか言いながら悔しい自分に気付きつつ、楽しく読めたのですが、後半、とくにバラバラ殺人の件が明らかになる辺りからもうほとんど先の出来事は全て読めてしまいました。この人はこうなる、というのが。なぜなら、登場人物がステレオタイプだからです。そして、作者の立場は当然、黒澤や佐々岡や豊田です。周りから不器用だと言われても誠実な生き方をしている人たちです。黒澤は泥棒ですけれども根っからの泥棒ではありません。相手のことも考えられる、良心ある泥棒(?)です。彼らに幸福が訪れ、金の亡者には不幸が。何て単純な構図なんだろうか。
ですから、ラストで戸田が志奈子と賭けをします。こんなもん、もう答えは見なくても分かります。ミステリーとしては失格です。意外性も何もない。もっとも、僕はこれをミステリーとして読んだつもりは全くありませんが。そういう意味でラストは不満ですね。ただし、豊田が宝くじを見つけて、それを換金しに行く場面を作らなかったのは素晴らしい。冒頭で書いたとおり、真実は一つではない。作中に「億を軽く超える」当選くじとは書いてありますが、それを言っている人物が嘘つきだったわけですから。「ラッシュライフ―豊潤な人生」で締められていますが、これは宝くじが当たって負け組にみえた豊田が大金を手にすることを意味するのではないと僕は考えます。作中で示されてきたことは、「金があれば幸福、というわけではない」ことです。「金で何でもできる」のではないのです。だからあのくじが外れていても、豊田には関係ありません。戸田の誘いを断った時点で豊田には「豊潤な人生」が理解できていたのですから。
最後に。先に僕は「無駄がない」作品だと書きました。それはそれで素晴らしいと思います。が、僕は無駄があってこそ豊潤な人生だと思うのです。無駄の中に必要なものが含まれている。競馬で言えば、12R全てに手を出しても全部当たることはありません。むしろ半分以上は外れます。でも、たった1つでも当たれば勝てることがある。そういう無駄があってはじめて必要なもののありがたさを感じ取ることができるのではないでしょうか。
無駄を削ぎ落としすぎた余り、偶然が重なりすぎていてちょっとクドイのです。単純なモデル化した人生の縮図とはいえ、あまりにもワザとらしすぎる。そこが鼻についたところです。重箱の隅をつつくようですが。
伊坂幸太郎、また要チェックな作家が一人追加されました。

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