ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」

半日眠りこけた後、うどんでんねんを摂り、続きを読んだ。
宗教論が大半を占めた前半部分とはうってかわって、心理分析について、そして、その方法と結果がいかに馬鹿げているか。人間の限界というものを思い知らされた。つまるところ他人の気持ちは完全には理解できないのである。狂人でも正常な人でも。
信仰が心理分析に及ぼす影響力は、ドストエフスキーの場合、とてつもなく大きいけど、その分析は同じ事件を扱っていても、同じ材料をもとにしていても、全く異なるいくつもの解釈が成立する。どれもが間違っていて、どれもが正しい。現実は一つしかない。しかし、可能性は無限にあり、それらはわずかな組合わせの妙によって現実化しないまま終わるかどうか流されていく。検事イッポリートと弁護士フェチュコーヴィッチの論争にそういったものを感じた。
全体を通じて、やはり「信仰」というのが一つのカギになっていて、それもキリスト教の枠にありながら、教会の教えとはやや異なる、むしろ、こっちこそ本当の「信仰」と呼ぶにふさわしいのではないかという論理が貫かれている。すなわち「良心の呵責」であり、それによってのみ人は裁かれうるのである。神は目に見える形では存在しないし、決して人を救ってはくれない。神に助けを求めるのではない、神はただ信じるというその心にある。そう思うのだ。
余談ながら、父親が子供を愛さなければ、子供は父親を殺しても罪にはなるまいというフェチュコーヴィッチの件は、決してロシアだけのものではない。日本にもそのことを扱ったものが残っている。すなわち浄瑠璃や歌舞伎で今も度々上演される「夏祭浪花鑑」がそれである。泥場とよばれるこの作品の中で最も有名な場面、非道な義父を止めようとして誤って斬りつけてしまう団七。「親殺し」と叫ぶ義父をままよとトドメをさし、「悪い人でも親は親」と手を合わせる。トドメをさしてしまうかどうかはさておいて、「悪い人でも親は親」なのである。全く異なる宗教観、倫理観を背景にしているが、世界共通のテーマなのである。これについてはまたゆっくりと考えていきたいと思ってる。
ところで、「夏祭」でも最後は弟が「下手人」の兄貴を逃がしてしまうところもそっくりなんやけど(苦笑)

秘密の入口