阿部和重「シンセミア」

シンセミア〈1〉 (朝日文庫)

シンセミア〈1〉 (朝日文庫)

今日、めでたく残業デーより解放された。やっと季節労働も終わりなんやな。
が、なぜか寝不足。理由は、「シンセミア」。「判断力批判」を断念して、とりあえず現代モノを読んでみようと思い、ストックにあったこいつをひっぱり出してきたわけや。多忙な中、2日に1ぺんぐらい読んどったよ。淡々と読み進めて、昨日の帰り、最終章にかかった、ところで止まらなくなった。テンポが急激に速くなり、一気に結末へ向かう。そして気付いたら2時。久しぶりやな、時間を忘れて読書に没頭したというのは。
題材は現代社会を描いて問題点をえぐりだしているように見えるけど、違う。それは表面的なものだけであって、本質的にはもっと深いとこにある。まず最も大事なのは、「みえすぎちゃって困るの」。情報過多。人間の本能として「知りたい」という欲望がある。それが文化のハッテンに、技術の進歩に、寄与しているわけやけど、知ったことが正しいかそうでないかというのは分からない。また、正しいとしても、知らなかった方がよかったというものもある。知りすぎた人々の悲劇とでも言うのかね。無理やり終わらせている感もあるけれども、知りすぎたゆえの破滅。これは時代を問わずあるんやろうね。しょせんは疑心暗鬼な生きモンなわけやから、人間は。不安や疑いが情報を捻じ曲げ、理性をなくし、暴走させる。
それから、「記号」の問題。「パン屋」といえば平和みたいな、「土建屋」といえば893みたいな、そういう思い込みがある。名前という仮面をかぶってるわけやな。一番わかりやすいのが「警官」。警官の制服さえ着ていればストーカーをしようが全く不審に思われない。その中身はとんでもないわけやけど。見た目、名前といった記号にだまされてる、というのは常にある。この辺は伊坂幸太郎も指摘しとったな。見た目にごまかされずに本質を見定めること。これは大事なことなんや。
ところで、本物の「阿部和重」は一体どれなんかな(苦笑)
まあそういうのもあって興味深かったよ。

秘密の小部屋