伊坂幸太郎「魔王」

あやうく夜更かしして寝不足に陥るところでした。
まずは「意外」と言いましょうか。
彼はハッピーエンド以外にも書けるんやなあと。これまで文庫化されてきた作品はいずれも「救い」が最後にあり、めでたしめでたしで終わる。
現実世界に「救い」のないこの日本。小説の中ぐらいハッピーエンドでもええよなとは思っていたけど、正直、全部が全部そうやと展開が読めてしまってつまらないというのもある。勧善懲悪な話も繰り返されるとハナにつく。
しかし、「魔王」は違った。新境地というのか、テンポにしてもこれまでより遅めで、「腹話術」もマスターの能力も最後まで不明で(マスターの能力は睨んで殺すと思うけど。ついでながら最後には能力の使いすぎで死んじゃったんじゃないかとも思う。)、これまではほとんどのキーポイントについては最後に種明かしをしてスッキリさせてきた伊坂幸太郎が、ある意味チャレンジしてみた作品だろう。
僕はこっちの方が好きやね。
小説という文字のみで表現する創作は、映像や絵画にはない特徴がある。「想像力」。時には相手に思ったように伝わらないという欠点にもなり、しかし、それを上回る「自由度」という長所でもある。
いくら風貌や言葉遣いを詳細に描写しても、そこから読者が想像する人物や風景はそれこそ読者の数だけある。そしてその想像の数だけ楽しみ方がある。それこそ、犬養が首相になるまでの5年間なんかは読者の想像におまかせである。それなりの経過は書かれているものの、そこまでの過程は事細かに描かれているわけではなく、登場人物の会話の端々を拾ってつなぎ合わせてそこから想像するしかない。
あるいは、島の5年間そしてその後も、マスターの正体も、なんで10分の1までは当てられるのかという能力のヒミツも。今回はほとんどが読者にオマカセになっている。
白黒をはっきりさせたい人は「これは手落ちだ」と言うかもしれないけど、説明しすぎてもくどいし、何より、「考えろ。考えるんだ」と僕は言いたい。
そう。「考えろ」というメッセージは、何も政治やそういうことを真剣に考えろということではなく、小説を読む者も、与えられたストーリーだけでなく、「考えろ」、自分で場面を、展開を「考えろ」ということだと思うのだ。これまでは「与える」役割をしてきた伊坂幸太郎が、材料の提供にとどまり読者に「考える」余地を残してくれた。そして、それこそが読書の醍醐味でもあるということに気づかせてくれた。

にしても、競馬で1億円とはうらやましい限りである。
そういう(能力を持った)ものにわたしはなりたい。
ウソやけど。外れて外れて、たまに当たるから競馬は面白いのだ。