町田康「告白」

告白 (中公文庫)

告白 (中公文庫)

読み終えてワシは言葉に詰まる。
こんなに言葉って難しいもんなんかと。
本を読みながら、ワシはあれこれと考える。「なるほどそれはそうやなあ」「そうくるか」「そこはそうやなくてこうなんとちゃうんか」「そらそうよ」「そんなんアカンアカン」「そうなればそうなるやろ」。
しかし、こいつらをうまく1つの言葉にまとめようとすると、やっぱりできないのである。
熊太郎の長い長い独白(あるいは、この作品そのものが数百ページにおよぶ「独白」かもしれない)が、いざ自分で何かを書き出そうとすると実感できるのである。
文句だけをスパッと言い放ってしまうのは簡単よ。「○○氏ね」とだけやればええんやから。
しかしその○○に氏んでほしいという理由を説明し始めると、本当は非常に難しいのである。難しいから思考放棄して「むかつくから」で終わらせてしまうのも簡単である。
では、むかつくと思考放棄して終わらせてしまえるのはなぜか。それは氏んでほしい理由をイチから説明して、こうなるからそうなってと、やるのがめんどくさい。めんどくさいというよりも難しくてできない。だがとにかく氏んでほしいのである。それだけは間違いない。氏んでほしいからむかつくのである。あれ? 思考順序が逆転していないか?
と、なってしまうんよ。
書いている内容自体はそんなに長いもんでもないし、ましてや、結局のところ、なんで熊太郎と弥五郎が十人斬りの凶行に及んだかという理由を説明するためだけに何百ページも割かれているわけである。
そこには狂人特有の妄想もあるが、それだけではない人間心理の複雑な思考と駆け引きと単なる思い込みとが入り混じって、それらが裏切られて、時にはあかんことになって展開していく。展開していくといっても脳内だけで展開していくのが大半で、つまるところ人間がものを考えて生きていくとそのほとんどは自分の脳内だけであらゆる出来事が生起するのである。
正味、こんだけ全部書いてええんかと思うよ。正味、ほとんどが構成を考えていく段階で組み立てて裏に隠して見えない柱にするような、そんな内容やで。それをあえて余さず綴ってみたという町田康には正味、頭が下がるわ。やってもええんやな、こういうこと。いや、やったらアカンことなんか正味、そんなにあらへんのよ。ってなんでワシ、正味のフヂワライちゃんになってるんや。
まあそういう意味でも衝撃的であり、参考にもなり、また、これだけアカン思考を書き連ねてぐだぐだにならんというのもすごいよと感心するのである。