トルストイ「戦争と平和(三)」

時には戦争の細かな描写を、わずか数時間に数十ページも割き、あるいは、戦局全体に対する俯瞰を与える。またインターバルのようにサイドストーリーを挟み込んだりする。
どこかでみたことあるな、この展開。
そう。仁Dの展開である。
正確に言えば、仁Dがこの手法を頂戴しているわけである。
とはいえ、こんなとこにも総務省講談社の中の人が意識しているかどうかは分からんけど、自然とそうなったんか、狙ってそうしてるんか。
まあ、そんなヨタ話はさておこう。
これで7割5分読みきって、この時点で感じたことを一つ。
もし、歴史を学びたいという学生がいたら、絶対に十代のうちに読んでおきなさいという一冊に挙げたいと思う。
「歴史を学ぶ」といっても高校の授業とかではなく、史学科であるとかそういうところで卒論なり何かの論文を書くぐらいの研究をしたいというのであれば、教養としてではなく、歴史哲学の本として読みなさいと。
正直、19世紀に書かれたとは思えない歴史観が繰り広げられていて、ヘーゲルの歴史哲学が19世紀の王道を行くものであるとすれば、20世紀、特に第二次大戦後に広まってきた「市民の視点からの歴史観」を100年早くやってのけたのがこの作品とも言える。
読み進めていくにしたがってワシの後悔の念が高まってくるのである。なぜ15年早く読まなかったのか、せめて12年早く読んでいれば。
薦めてくれる人間がいなかったのも確かではあるし、世界の名作なのであえて薦めるというよりも自発的に読めというのもある。けど、そうはいってもこれだけの分量。なかなか手に取る気力もないのが実情。そこを無理にでもなあと。
この作品に時折描かれている史実、あるいはその別の側面を覚えろというのではない。その史実、というよりも出来事、それも断片的なものではなく、連続した事件の流れをいかにみるかという歴史観。これを読みほぐしていきなさいと。丸々受け入れるのではなく(それでは単なる受け売りだ)、評価し、批判すること。それが学問のステップである。
と偉そうなことを並べているが、10年前のワシには、とてもじゃないが、そんなことなんかできやせんわな。それだけになお一層、悔しさが募るのである。
ま、後悔先に立たずやし、ED先が立たずやからね。ワシはこれから先に活かしていけばええと思う。まだ遅くないんよ。