伊坂幸太郎「重力ピエロ」

重力ピエロ (新潮文庫)

重力ピエロ (新潮文庫)

もう1回、読んでみた。
少し前に読んだとはいえ、やはりネタは覚えているので筋を追うよりも、その構成やらなんやらを。
ストーリーの展開が非常に巧い。これは他の作品でもそうやけど、とにかく読者に「次を読みたい」と思わせる引っ張り方は一流。
いつも言うてるけど、どんなにすばらしいことが書いてあって、どんなに美文がつづられていようとも、誰も読んでくれない文章には意味がない。正確に言えば、自分に対しては自己満足やら何やらを与えてくれるだろうが、対外的には無意味であり、はっきり言えば時間の浪費以外の何物でもない。2ちゃんを徘徊して「プギャー」とカキコしてるのと同レベル。
そういう意味では、まず「読ませる」という姿勢はどんな形の物書きであれ、最低限、意識しなければならないこと。
しかし、「読ませる」ことに重点を置きすぎた代償として、人物の薄さというものが付随してくる。例えば、葛城の心情であるとか、夏子が春の真実を知ったときの揺れ動きやら、書いていないことはないが、さらっと触れられているだけで、あくまで添え物扱い。もちろん、泉水と春が主人公なので、他の登場人物についてはその程度でいいっちゃあ、そういうことかもしれないが、別の角度からはみないわけなんやというのはある。視野が狭いのである。
実際、そこまで書き込んだとしたら話としてまとまりがつかないし、そういう小説なんよということではあるが、違う切り口もあるなあと思ったりするわけよ。
ただ、そういう心理描写の続く小説というのは、今は受け入れられにくいんやろうな。展開が遅くて飽きられたりして。
細かいところを挙げだすと、どうやって夏子は春の部屋に忍び込む前にノートの存在を知っていたのかとか、そもそも合鍵はどこで作れたのかとか、無理の生じているところというか、伊坂ワールドにも穴はあるよと。
まあそこは目をつぶって、映画、なあ。やっぱりこれは映像化したらアカンやろ。そういうイメージが固定化するというのか。5,600人ぐらいが読んだら5,600通りの映画が頭の中にあるというのが読書の面白さじゃないかなと思うんやけどね。正解は1つである必要はないわけで。そう言ったら「映画化が正解かどうか」なんてのも答えは1つじゃないやろうといわれるかもしれんが。たとえ正解じゃなくても、個人的にはそう思う。