プラトン「パイドン」

パイドン―魂の不死について (岩波文庫)

パイドン―魂の不死について (岩波文庫)

夏競馬の過ごし方。
朝適当に起きる。起きた時点ですでに「朝」でないという話もあるが、便宜上、朝ということにしておこう。
起きたらコーヒーをネルドリップで淹れて卵を茹でたり焼いたりして朝飯にする。テラスの日蔭で、とか優雅なことをやろうとすると虫がうようよ這ったり飛びついてきたりする(これは広い庭でもないと無理だな)。
掃除や洗濯をした残りの午前中は音楽を聴いたり、本を読んだり。グリーンチャンネルをつけるとか野暮なことは、しない(つけると余計なレースを買いたくなるからというのが本音)。ご近所さんがピアノの練習に熱心なので、ワシも負けずにルービンシュタインバックハウス、それにビル・エヴァンスを大音量でかける。日曜の朝は流麗なビル・エヴァンスがグッドバニヤン
昼飯を食べにちょっと中山まで出かける。中山の外、といっても大した店もないので場内で「なかやま丼」とか食ったりする。あどまいや丼でないだけマシと言われたが、アドマイヤドンは朝日杯を勝ってる気がする(笑い)。
ついでに馬券を買うわけだが(ずいぶんカネのかかる「ついで」だなあ)、毎レース買っていると当然、負けが込む。ので、極力、狙ったレース以外は穴場に近寄らないようにしている。
具体的にいうと、飯を食うとか、コーヒーを飲むとか。それにスタンドのベンチに寝転がって本を読む。これが存外気持ちいいのである。今日みたいな例外的な日を除けば、中山の1階スタンドのベンチなんか1列丸ごと空いている。夏場といえども風が通り抜ければ暑さは感じないし、何より、中山のスタンドは午後から陽が当たらない(ので冬は極寒なのだが)。冷コーを買ってきて30分かけて飲みながら読書に勤しむ。不思議なことに静寂な空間よりも若干音のある方が集中できたりする。時々、レース中継が聞こえたりするが、「買わない」と決めたレースが終わるまでは黙々と読んでいる。
で、プラトンの「パイドン」である。
この間も野矢センセのを読んでいたが、ボーっと時間を潰すだけの本よりも、多少考えながら読み進める本の方が合っていたりする。スッと頭に入ってきて1ページに5分も10分もかかることもない。これがスタバのフカフカソファーとかで読んでいると1ページ読むのに15分とかかかったりするのだ。なぜか。
思うに、ある程度、関係のない刺激があった方が頭は回りやすいんではないだろうか。全く無音、暑さ寒さも適度に管理された部屋というのは、集中するのによさそうだが、そこにしか意識の持っていきようがないため逃げ場がない。一つ事に集中し続けられるのには限度があり、人によってまちまちだろうが、30分とか1時間というのはちょうどいいぐらいなのだろう。その短い時間だけ、グワッとのめりこむ。ファンファーレが目覚まし。目覚ましが鳴れば現実へ帰り気分を入れ替える。インターバルをおいて、再度。その繰り返し。
本当にこれが実践できれば、馬券の損害も減るんだろうが、生憎14時を回ると回路がショートしてしまうらしい(笑い)。しかし、そこまでの2時間程度。断続的にプラトンを読んでいると本当に日常を忘れられる。これはプラトンだから可能なのかもしれない。カントとかヘーゲルであると無理だろうな。硬過ぎて。
パイドン」自体は、何も難しいことは書いていない。いや、プラトンはどれも難しいことは書いていない。非常に分かりやすく道徳を説いている。全く実践できる人は、今となっては皆無だろうし、実践したところで馬鹿をみるだけなのは疑いようもない。「哲学とは死ぬことの練習だ」と言ってみても死んだら何にもならんぜよ。生きなければならんのだ。馬券も死ぬ気で、外れてもしょうがないの気持ちで買ったら外れる。生きなければ、当てなければならんのよ。
しかし、毎日死んだように帰途につくここ最近。ま、それはともかくとして。
プラトンを読むたびに思うんだが、なぜもっと早く読んでおかなかったのか、せめて20ぐらいまでに読んでいたらなあと。そうすれば人間形成においてもっと有意義に働いただろう。少なくとも読んでいて端から馬券に結び付けて考えるようなおバカにはなってなかったろう。これは自分もいかんのだが、プラトンを若者から遠ざけているのは実に学校の勉強ではなかろうか。高校の授業なんかで「プラトンはなんちゃらかんちゃら…」と強制的に詰め込まれて、試験のために覚えさせられて。そうやって強制されることは忘却されるのも早いし、何より拒絶反応を生みやすい。授業やテストで触れられているのはプラトンの「プ」の字の丸にすら足りていないというのに。
日本の古典だってそうだ。古今集源氏物語の極々、本当にごく一部分だけ覚えさせられて、分かったようなつもりになったり、拒絶したり。幅広く教養を深める、にしてもあまりに不足しすぎていないか。とはいっても、わずか高校3年間では、さわりに触れるだけでも時間は足りないわな。
そこでだ。
課題ではない。自主的に古典を読ませるように仕向けていくべきであろうとワシは思う。エサで釣ったっていいと思う。とにかく。授業ではほぼ99.9999%触れることのできない古典に触れさせること。そして、実は難しくないし、案外面白いもんだよと気付かせること。「案外、読めるじゃないか」とか「教科書に書いてあることはつまらんが、実はこんなに面白い話だったんだ」と気付くこと。1つでも気付けば、後は話が早い。拒絶反応の生まれようもないし、その段階にあったものを選べれば順番に読破していくことにもつながるだろう。
そういうキッカケ作りというのが、今の教育には欠けていると思うんだな。と他人や社会のせいにしてしまう。実は本人のやる気一つなんだが。
いやしかし、もしワシが「現代の若者に1冊薦めるとしたら」と問われたならば、ラノベでもなく、マンガでもなく、村上春樹でもなく、プラトンを薦めるだろうな。まず1冊、たかだか100ページかそこら、読んでみろと。
と、函館で買ってきたさきいかをアテにコロナを飲みながら書いているので、全く説得力のない話である。