伊坂幸太郎「ゴールデンスランバー」

当然BGMは「Abbey Road」。伊坂幸太郎はきっとこのアルバムが大好きなのだろう。以前にも「ラッシュライフ」で「Here Come the Sun」を繰り返し聴く人物が出てきた。今回はポールまで登場する。
そんな瑣末なことは、どうでもいい。(本人は瑣末なことにこだわっていると巻末に書いているが。)
やはり「物語」を語らせたら現代作家でもトップクラスと思う。最初は緩やかに、徐々にピッチが上がって最後は激流に流されるように読み進めてしまう。読者をグイグイとひきつけていく牽引力には毎度のことながら脱帽である。
なぜか。
知らず知らずのうちに登場人物へ感情移入してしまうというのが一つ。どこにでもいるような平凡な人物が主な登場人物なので、読んでいる方も移入しやすい。
「もし自分がこの立場に置かれたら」
「そういえば自分にもこんなことがあった」
と思わせておいて、落とす。また引っ張り上げる。そうして読者はいつの間にか見知らぬところへ連れて行かれる。しかし、それでもなお袖を引っ張って、ご丁寧に台車にまで乗せて運んでくれる。だからスピードに乗って次々とページを繰っていってしまうのだろう。
ただ、今回はちょっと違う。今までは展覧会でいえば、順路どおりに案内してくれてガイドまでつけてくれていたのが、この作品では順路は示してあるけれども、通り道は脇に逸れていくとか、順路から逸れる道もあって何か展示らしきものが見えるんだけれども見せてくれないまま通り過ぎるとか。
悪く言えば、不親切だろうし、読んだ後にすっきりしないということもあろう。が、良く言えば、それぞれの読者に与えられた想像できるエリアが広がって読む楽しみが広がった。
個人的には、何も考えずに筋を追って(追わされて)一通り話の流れを河口まで下りきったら自動的に全部教えてくれるというよりも、ある程度の方向は示されているが、目的地へ辿り着くまでの手段は自分で考えなさい、あるいは、目的地に辿り着いて何をするのかは各自ご自由にという方が読書を楽しむことができると思う。というよりも、単に文字を追って、筋を追って、あらすじを理解できたらおしまいというのはただの暇つぶしであって、本来の読書とは、読んだところから世の中や人生について考え、あるいは想像をめぐらせて、精神的に豊かにしていくものではないだろうか。
これはずっと言い続けているが、「ゴールデンスランバー」の文庫の巻末にも伊坂氏が似たようなこと(風呂敷を広げたまま放置の類のこと)をインタビューで語っていたとあり、「うん、なるほどな。」と納得した。
多くの人物が出てきて、事件の核心が語られる前に「この人は死んでしまった」と明言されてしまっているのが何人かいる。そのうち、数人は死に至る経緯がはっきりと描かれているが、中には思い出したように名前が出てきては結局何も起こらないまま終わってしまった人もいる。そのような登場人物について「なんで殺されたのか書け」とか「最後まで書いてくれないのは中途半端だ」とか言うのはヤボと言うもので、与えられたいくつかの情報から読者が銘々に想像したらいいじゃないですか。そういうのって楽しくない?
通勤電車の中で読破してからしばらく「あの話はどうなった」「この人はどうなる」と空想してみた。時にはページを繰って与えられた情報を再確認する。至福の一時である。そうして「自分ならこの登場人物でこんな話を作る」と考えていって次代の伊坂幸太郎が育っていくんだろう。