北さんのおもひで

北杜夫氏が死去された。
北さんの作品は自分が一番最初に読み始めたマトモな本で、かなり影響を受けたものである。例えば、旅行へ行くにしても一時までは必ずトーマス・マンの「トニオ・クレエゲル」を鞄に入れていた。北さんのマネである。これを移動の車中で適当にページを開けたところから読み始める。筋は覚えてしまっているので、それぞれの場面を反芻しながら文体を味わったり、時には考え事に耽ったりした。大学時代には授業をさぼって駒下や吉祥寺のサテンでぱらぱらと拾い読みをして時間を潰したものだ。おかげで我が家のトニオ氏は北さんのと同じようにセロテープで補修されたり、あちこち染みていたりしてヨボヨボだ。
また、総ウソ病ならぬ躁鬱病を知ったのも北さんの作品である。この面白いキチガイの書いたエッセイのおかげで精神病に対する偏見など持たずに育つことができた。というか、中学の頃は憧れですらあったな(笑い)。
もう一つのキチガイといえば、相当に熱狂的な阪神ファンでもあられた。どれぐらい熱狂的なキチガイかというと、阪神戦の中継をラジオで聞きながら江夏に念を送ったり、自分がトンデモないポーズ(ヨガのポーズなど)をしている時に阪神が点を取ろうものなら毎イニングそのポーズを取り続けたそうだ。よく関西地方では見かける光景ではある。それを北さんは東京で一人実践されていた。その点ではダンカン級あるいはダンカン以上のキチガイだろう。2003年のリーグ優勝の折には躁傾向であったことも影響して、「マンボウ阪神狂時代」を上梓されている。勢いで阪神百貨店で単行本を買ってしまった。(ワシが単行本を買うのは非常に珍しいのだ。)大体、この本、普通著者近影があるべきところに載っている写真が「バース選手と著者」なのだ。うらやましい。


さて、北さんの作品からベスト3なり、ベスト10なりを選べと言われると非常に困ってしまう。どの作品も好きなものが多いからだ。そこをあえて3冊選ぶとすれば、
・どくとるマンボウ航海記
・幽霊
・楡家の人びと
だろうか。初期の作品ばかりになってしまったが、「どくとるマンボウ」シリーズをはじめとするエッセイは北さんの作品でも最も好きなものだ。度々登場する狐狸庵先生こと遠藤周作氏との交友や躁病になった北さんが起こした数々の騒動を笑いたっぷりに書かれていて面白い。中でも「航海記」では今からは想像もできないスローな船旅の情緒も感じ取ることができ、「昭和のよき時代」を知る史料としても貴重だ。


「幽霊」は完成度としては低くはあるが、瑞々しいまでの青さが鮮烈で、10代のうちに読んでおきたい一冊だ。続編の「木精」もいいが、「幽霊」の持つ初々しさの方が個人的には好きだ。


「楡家の人びと」は御存知「ブッデンブローク家の人びと」を斎藤家バージョンで書いてしまった大作である。それを書けるだけの名家に生まれ育ったという幸運もあるだろうが、三代目が芸術で身を滅ぼしていくというところに北さんの並々ならぬ覚悟がうかがえる。彼も三代目なのだ。(現実にはお兄さんの斎藤茂太氏が病院を大繁盛させたのだが。)


年齢を考えればいずれこの日がやって来るとは分かっていたが、やはり寂しいものである。