山本五十六

新年第一弾からじじむさいものを観てきた。元来、戦争映画は好きなので堪忍してほしい。
公式サイト
http://isoroku.jp/
最初に結論だが、この映画は失敗作だ。
キャストはいいと思う。役所広司は戦いたくないのに現場の指揮官として命令に従わざるをえない山本五十六の苦悩をよく演じた。この作では憎まれ役の南雲忠一中原丈雄が飄々とこなし、一転ミッドウェー後のお茶漬けのシーンではその悔悟の念を描けていた。熱血指揮官の山口多聞阿部寛にぴったりだ(この人の軍人役は「坂の上の雲」もそうだが似合う)。また、香川照之の新聞記者宗像は如何にも詐欺師という雰囲気が出ていて好演だろう(そういえばこの人も「坂の上の雲」で文士として出ていたなあ)。
それを措いても失敗だという理由がある。脚本だ。
スタッフの思いとしては山本五十六のあまり知られていない事実を知ってほしかったのだろう。英米との戦争につながる日独伊三国同盟に反対したにも関わらず政治の大局を動かせなかったこと。皮肉にも最前線の指揮者として命を奉じなければならなかったこと。死の間際まで開戦させた責任をもって終戦つまり和平に導く努力をしたこと。これらが一番描きたかったことだろう。しかし、世論に押し切られるように、ということを表したかったのか、ブン屋の件を間に入れてしまった。それがかなりの時間を割かれてしまっているために、山本五十六の真の人物像を描きたいのか、当時の社会を描くことで太平洋戦争開戦の原因を別の糸口から探り出そうとしたのかがボケてしまっている。また、ブン屋がデタラメというか傲慢不遜で自分たちが世間の代弁者であるという鍍金の金看板を掲げているところ、現代社会の風刺・批判ともとれてしまう。事実「この5年間に首相が9人も代わった」というセリフがあり、これはどう考えても現代日本への当て擦り以外にない。現代社会への批判や警告を主とするのであれば、そちらに重点を置くべきだったし、山本五十六の人物像が主であるならばここはサッと流す程度にしておくべきだった。
映画というのは「時間」という制約がある。2時間ないし3時間の枠内で伝えたいことや表現したいことを描ききらなければならない。これは長いようで非常に短い。昨今ベストセラー小説を映画化した作品が多いが、それらにしてもどれだけ原作をカットしたり設定を変えたりと再構成されていることか。今回の「山本五十六」についてはこれという原作はないが、監修・脚本を担当し、かつ玉木宏演ずる新聞記者真藤のモデルでもある半藤一利の同名自著が概ね基になっているのだろう。エンドロールを見ていると阿川弘之のいわゆる海軍提督三部作(「山本五十六」「米内光正」「井上成美」)も叩き台になっているだろう。だが、これらを全て描ききると「ショアー」を上回る超大作(時間的な意味で)になってしまうだろう。私、とある機会に「ショアー」の全編通し上映を観させられたが苦痛というか拷問というか…。一般客に観てもらうにはきっちり時間を切らないといけない。
さらに大きな失敗は山本五十六の人物像を描きたいのなら、なぜドキュメンタリー形式にしなかったのかということだ。個人的には半藤一利は一流のドキュメンタリー作家だと思う。取材した内容を緻密に構成し価値ある記録を書かれている。それゆえに映画をなぜドキュメンタリー形式、あるいはそれに基づいた芝居にしなかったのだろうか。自らの体験談を挟むことで山本五十六の「目で耳で心で広く世界を見なさい」というメッセージをより強く伝えたかったのだろうか。しかし、これは焦点が2点に分散してしまった。観終わった直後、半藤さんは本当は山本五十六を通じてこのメッセージを伝えたかったのではないか、こっちの方が主目的なのではないかとすら思った。ならば、作中の軍令部と連合艦隊との関係そのものである。作戦の主旨がうまく共有できていない。
私は映画というのは作り事だから歴史考証がどうのとか飛行機の型がどうのとか瑣末なことは言わないよ。だけど、作り事だからこそ、何を主目的として観客に何を伝えたいかということは大事にしてほしい。そこがブレてしまってはどんだけ大金を投じていい俳優を使っても良いものは作れないだろう。