少しずつ読みくだく

 石川忠司「現代小説のレッスン」(講談社現代新書)を読み始めた。理由は、この本のキーワードリンクが結構あったからw 個人的にも興味あるしな。他の本も同時進行しているので少しずつ読み進めて僕なりの解釈を書いていこう。

プロローグ

 ここでは文学の抱える問題について提起がなされている。要約すれば次の通りである。


 物語は語られる際の声質、イントネーション等によって状況、登場人物の内面や性格などを表現できるが、小説は活字によってこれらを表現しなければならない。近代小説は「内言」「思弁的考察」「描写」によって表現してきたが、これは物語本来のストーリーをぶつ切りにする。物語を切らずに「内言」等を表現するためにはどうすればよいか?


 ホメロスや「平家物語」は語り手によって口承されてきたものが活字化されたものである。これらは非常に単純明快である。まさにストーリーしか書かれていないからである。だが、活字で読んでいても物足りない。「誰がいつどこで何をした」という小学生の日記と同じレベルのことしか書かれていないからである。「どのように」が抜け落ちているのだ。しかし、これは止むを得ない。「どのように」は語り手が語って聴かせたからだ。
 謡曲浄瑠璃や講談にも同じことが言える。さらに広げれば俳句、短歌、詩も当てはまらないだろうか。黙読ではなく朗読してみて初めて味が出てくる。このような表現は「音楽的要素」と言っても過言ではないだろう。音階、リズム、メロディー。これらは音にすることで表現される。
 この音楽的要素を活字で表すには近代までは一旦、物語を中断する必要があった。しかし、音楽的要素という「添え物」が膨張するにつれて「メインディッシュ」であるはずの物語が連続性を失ってしまった。現代小説はこの連続性の回復がテーマとなっている。ただ、「添え物」が邪魔になるからといって捨て去るとホメロスまで退化してしまう。現代小説において表現上で問題になることは「添え物」を如何に調理してやるかだ。


 ここからは個人的見解である。物語の表現に音楽的要素を含ませることである程度はクリアできるだろう。ただし、韻文で終われば詩歌のレベルまでだ。リズムは表現できるが、ハーモニー、メロディーは表現できない。ここで注目したいのは文字の音階である。子音、母音はある程度の音階をイメージできる。これを活用することでハーモニーを表現できないか。勿論、言語や方言の差異で音階が変わる。そこをどのように処理するか。
 また、メロディーは日本語なら文章に漢字、かな、句読点などの記号、あるいはスペースを活用することである程度、黙読で再現することが可能ではないだろうか。
 時々、思う。活字によって音楽的要素を表現することは、CDやレコードなどのソフトから実際の音を出すプレーヤーとアンプ、スピーカーといったオーディオ機器の設計に似ている。同じ音源から音源通りの音を出す(物語を単純に活字化する)、あるいは高音部の音響効果を狙ってみたり、低音部の増幅を図ったり、何らかの味付けを行う。どれがいいかは聴く側の好みだが、設計者の意図は鳴らされる音に表される。活字も同じだ。素の物語に表現者の意図が加えられることで物語の醸し出す雰囲気が変化する。
 抽象的な話になってしまったが、具体的な構想がほとんどないから仕方がないw そう言えば「w」なんてのも一種の「添え物」だなあ。「w」と「(笑)」では嘲笑的な意味が付加されるという差異がある。こういう単純化された記号は手段の一つとして有効ではある。

現代小説のレッスン (講談社現代新書)

現代小説のレッスン (講談社現代新書)