反フロイト的解釈と時代の連続性

 中1日おいて石川忠司「現代小説のレッスン」の登板。さて展開はどうなることか。

四章 暴力と物語領域

 まず冒頭から「フロイト的解釈」で「犯罪は事前に無意識下に持っている罪悪感を軽減するために行われる」とされ、一連の村上春樹作品群での「殺人」を村上春樹の持つメランコリーに原因を置いている。それがエスカレートすることで物語世界が拡張していき作者の手に負えなくなっている。対照的に、藤沢周平阿部和重らでは「藩」や「神町」といった限定された小さな範囲において「ドラマ性」を成立させている。
 確かに物語領域が広がれば密度は低くなるゆえに希薄感が増加するであろうが、その点と冒頭のフロイト的解釈による「罪悪感の軽減」としての犯罪的行為を結びつけるのはいささか強引ではないであろうか。そもそも前提となっているフロイト的解釈自体に疑問がある。人間の行動が全て意識的ないし無意識下の感情により引き起こされるわけではないという点である。精神的に障害を来たしている場合、自分の意識とは全く異なる原因で自分の感情、行動、身体の働きが制御されることもある。パニック障害もその一つであるといえる。意識とは関係なく神経伝達物質であるセトロニン、ノルアドレナリンのバランスが崩れることで発症すると考えられている。ごく一部ではあるが、これが引き金になり衝動的自傷行為リスカやアムカというヤツですね)さらには自殺行為にまで発展することもある。
 反フロイト的解釈では村上春樹の「殺人」について動機付けは不可能になる。もっとも、これは全く的を得ていないことは承知の上だが。ただ、フロイト的解釈のみから発展させていくこの章は前提の段階で綻びが生じているのではないかと思ってみただけである。
 阿部和重の「ぺラさ」ゆえに「暴走」してしまうという読み方については納得させられる。ペラいゆえに短絡的であり、短絡的であるゆえに暴走してしまう。現代社会では特に顕著なテーマだろう。石川忠司は意識的に現代社会の問題と結びつけないようにして述べているようだが、現代社会の問題の根本原因が過去の積み重ねである以上、歴史的背景を結びつけてしまえば必然的に現代社会へと発展していかなければならないのではないだろうか。僕は現代社会から自律したテーマというのは幻想に過ぎないように思う。戦前、戦後と形式上区切られた時代区分は便宜上のものであり、全て時代の流れは連続性を持っている。
 今日は何だか批判的な読み方をしてしまったようだw だが、批判なくして評論は存在し得ない。大政翼賛主義ではイカン。他人の理屈を消化することは必要だが、鵜呑みにする必要はないし、それでは自分の中が矛盾だらけになってしまう。
 なんでかな? 「フロイト」の4文字に対して刃向かいたくなってしまうのかな? フロイトは偉大だが、絶対ではないし、むしろフロイト流の解釈には多くの矛盾を抱えている。身をもって体験して分かった。フロイトユングの流れでは臨床心理学は完全に説明できない。とは言え、自分、必至だなw 必至すぎるなww やっぱり立派なキ印だわw ただ最後に一つだけ付け加えるとすれば、物語領域の拡張によりもはや作者の手に負えないという状況が現代世界の政治においても成立してしまっている。アメリカ政府のことだ。支配領域の拡張によりアメリカ政府の手が全てに行き届くことは不可能になってしまっている。だから、反アメリカ運動はいつまでたってもなくならないし、その運動が暴力を伴う限り世界平和などありえない。ああ、だんだん書いていて左翼的文章になってきてしまった。僕は右翼なのにw とにかく、「アメリカ良い国 強い国」w うーん、完全に脱線してしまったなあ。まあいいか。

現代小説のレッスン (講談社現代新書)

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