ドストエフスキー「罪と罰」

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徹夜してでも読んでしまいそうなくらい引き込まれた。
ドストエフスキーはこれまで敬遠してきた。作品の長さもあったが、自分の器で受け止められるかという不安が大きかった。今回、長編は初めて読んだが、やっぱり消化しきれたとは思わへんよ。ただ、それはどの本についても言えることで、1回で完全消化できるような浅いものなら読まんでもええと思ってる。今はな。
本来ならこういう本は10年くらい前に読んでおくべきやったのかもしれん。けど、それを今さら言ってみたところで何もならんし、今読んだからこそ感じたこともある。


19世紀の作品でありながら非常にこう現代的な問題をはらんでいる。一例をあげれば、多くの利益のためになら人を殺しても罪にはならない、というあの一連の事件の発端になる動機である。アメリカ。米帝。あるいはイスラム原理主義。現代でも大義名分として、あるいは本気で信じられて聖戦の名のもとに大量殺戮が行われている。作品中にも出てきたが、ナポレオンもそうやし、アレクサンダーだってそう。要するに、人類が誕生して、社会を構成するようになってからずぅっと不変のままである普遍のテーマだ。その正当性だとかはここでは議論しない。しんどいもん。ただ、そういう意味でも現代にも通用するテーマを持っているということ。
それから、勝ち組・負け組。僕は常々、「人生博打」と考えている。勝ち組だとか負け組といったものには非常な興味があるんよ。何をもって勝ち組と規定するのか。これは考え出したらキリがないよ。ただ一つ言えることがある。常に勝ち組でいることは難しいが、常に負け組でいることはたやすい。ひょっとすると、人間はみんな負け組なんとちゃうかと思ったりすることもある。
短期的な視点で見れば、この作品で言えばラズミーヒンなんかは勝ち組といってもええやろ。あるいは、最終的に新しい人生をほのめかされている主人公のラスコーリニコフも勝ち組ということもできそうや。ただ、彼らが途中ではどうみても負け組だったこと、ことにラスコーリニコフなどはある一線を踏み越えてナポレオンになれなかったと自分を激しく責めたてる。自ら負け組やということを意識しているわけだ。
しかし、本当に勝ち組がいいのか。それは疑問だ。博打も勝ち組になれれば何をしてもいいのか。そうやないやろ。あるいは見た目には負け組でも本人にとっては勝ち組と思えることもあるしな。この辺のことはちょっと分からん。だから僕のテーマでもあるんや。ただ、「負け組でもいいや」と思ってしまったらそれはあらゆる面から「負け組」よ。現在の状況に満足することなく努力はしていかなアカンやろ。それだけは間違いないし、自分でもできているつもりよ。
何か全然、作品の内容と違う話になってもたな。いろいろと考えながら読んでたから手短にまとめるのも難しいし、まあええんとちゃうか。ここに著さなくても、自分の中で整理していって少しでも血肉にできたらええやろ。まあそういうことよ。