丸谷才一「文章読本」

文章読本 (中公文庫)

文章読本 (中公文庫)

なるほどなあと感心しつつも、これはいかがなものかといぶかしげに思うところもあり。
まずは「名文を読め!」というのは両手を挙げて賛成。「マイルスを聴け!」というのは片手を挙げて賛成w
というのも、やっぱり言葉の伝統というもんはある。これは丸谷才一も書いてるし、僕も前から言ってきたこと。いきなり新しいモンを生み出せるなんてことはない。古くからあるものを変えたりして新しい味を出していったらいい。そのためには名文、古典というもんを読まなアカン。最近の作家のを読む必要がないというのはそういうことよ。中身も文章自体も「何か浅いな」やから肥やしにもならん。「これでもいけるんかあ」って自信にはなるかもしれんけど(苦笑)。
文章は相手に何かを伝える手段であるから理論が通っていないといけないという原則も概ね同意である。ただ、これに関してはものすごく定義が曖昧で、伝える相手をどう考えるのか。あまねく読者全てなのか、それともごく一部の限られた読者なのか。例えば、どん語は後者に属する。後者には(補完が入ったり、定型文が使われているから)分かるわ。けど、前者であるとすれば、ものすごく退屈な文章にならないかなという気はする。全ての人に読んでもらおうと思ったら、全員に伝わるようなできるだけ平易な言葉を使わなければならない。あるいは、順序立ててバカ丁寧に説明していかなければならない。くどい。だから特定の読者を想定しながら、想いを伝えられればいいのかなとは思ってる。今はな。
レトリックとか技巧に関しても参考になった。いきなり使いこなすのは無理やけど。
外国語に親しめ、というのと、漢文調をお気に召されているのはちょっと分からん…。外国語はあったらそれでええんかもしれんけど、むりやり親しみにいって肝心の日本語がめちゃくちゃになったらどうするんや。という低次元の話でないことは分かってるけど。けど、知ってたらプラスにはなるよ、という付加価値でしかないような気もするんよな。
漢文調に関してはもう単なる趣味でしかないやろ。型にあてはめるだけでは意味がないし、それを言い出せば漢文だけではなく大和ことばでも英語でも何でもいいわけやろ。どんな言葉でもええもんはええ。

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