江藤淳「作家は行動する」

作家は行動する (講談社文芸文庫)

作家は行動する (講談社文芸文庫)

横浜との往復は1時間強。往復で2時間半弱。もう野球は今年は考えんでええようになったんでずいぶんと集中できた。
さて、率直な感想。
江藤淳、偏りすぎ。
何がかというと、西洋至上主義。何でもかんでもヨーロッパのものが優れている。ヨーロッパのものでないといけない。そういうのが根底にある。
旧来の日本を含めて東洋はダメと。
確かに「科学的進歩」という面からみるとそうなるのかもしれない。東洋は2000年近く伝統を守りすぎたために「停滞」してしまったのは否定しない。
が、ヨーロッパ流の科学の進歩は何をもたらしたか? 現代を見ればわかるだろう。人類は自分の首を絞めにかかっていただけだ。効率化は余計なものを切り捨てるが、余計なものにこそ価値があったことに気づいていなかった。緩衝材としての役割に。東洋的な発想では割りとそこらへんおおらかなんよね。
話を元に戻すと、江藤淳のこの評論の根底には「西洋至上主義」がある。だから西洋流でない、日本の古典へ回帰した三島由紀夫はぼろくそにけなされ、西洋で亜流になっていたマルクス主義も一刀両断。さすがにそれはどうかなあって思うよ。もちろん形式だけのものなんか肯定するつもりはないけど、ちゃんと読めば三島由紀夫が上っ面だけの様式美でないことは分かると思う。ただ見ようとしないだけなのだ。見たくないだけなのだ。
ただものすごく勉強にはなった。文章にとって一番大事なのは形式でも修辞法でもなく内容なんだと。それが「文体」なんだと。これはものすごく感銘を受けた。
古代ギリシア・ローマや古代の中国はものすごく発達した文明をもっていた。近世になって再発見されてルネッサンスへ昇華されたことからも明らかだ。
じゃあその間、中世の暗黒時代は何をしていたのか? 形式主義だ。形だけ学ぶ。型だけ踏襲する。中身はからっぽ。そら何にも新しいものは生まれないわな。
日本は、というと中国からの文化を朝鮮半島経由で取り入れ、日本古来の文化と融合させたのが平安以前。そこから暗黒時代。停滞する。形式主義に、権威主義に陥ったから。これが江戸時代まで続いて、明治維新で西洋文明が入る。で、しばし革新があってまた停滞。太平洋戦争でこれまでの価値観が全て覆されて新しくなるかと思ったら単にアメリカの真似をしてきただけ。
さて、ここで日本文化としてとるべき方向は、というと、もう純粋な日本固有の文化なんてものはない。中国かヨーロッパかアメリカの影響を受けたものしかない。けど、それら全てを融合した文化というのは、つい数十年前までは日本にしかなかった。今は韓国とか中国も進んで来てはいるけれども。それを生かさない手はないと思うのだ。それこそが日本の文化の進む道だと僕は思う。
あくまで単純化した話だが。
新しい価値観を生み出すのは結構。だが、その前に基礎固めはしておかないと土台のない構築物は簡単に倒壊する。その基礎になるのはやっぱり日本人には日本文化しかない、そう思う。少なくとも、日本語で書く文章なんだから日本文化が基礎にならないとうまくはまらないと思う。部品を間違えて組み立ててもうまく出来上がらないでしょ。


次に指摘したいのが、「読者の不在」。いくら素晴らしい文体で書かれていても誰にも読まれなければ意味がない。何のために書くのか? 何かを誰かに伝えたい。それなのに読み手を無視した文章はそもそもおかしいやろ。評論として、読み手の存在を忘れている、それは大きい。評論家が一人や二人、褒めちぎっても、一般人が読まなければ消えていく。夏目漱石が偉大なのは、文体が素晴らしいということもあるけれども、何よりも、「人口に膾炙した」ということ。漱石の連載が読みたいだけで新聞を変えたとか、江藤淳も指摘しているように戦地へ赴くのに漱石の文庫を忍ばせていったとか。貴族から平民まで幅広くに読まれた。幅広い層に受け入れられた。
だからこそ明治以降で最も偉大な作家なのだ。
取り上げられた作家の主だった人は、小林秀雄大江健三郎石原慎太郎三島由紀夫野間宏坂口安吾椎名麟三埴谷雄高大岡昇平武田泰淳福沢諭吉、そして夏目漱石
さて、この中で今も「小説家」「作家」として一般的に認識されている人は?
大江健三郎三島由紀夫夏目漱石。で、文句あるか?
マニア向けに知られていてもそれは筆者が繰り返し述べている「普遍的」とはかけ離れた存在でしかない。「普遍的」になりうるには幅広く受け入れられること。
もちろん、小林秀雄石原慎太郎福沢諭吉のように、別のジャンルで幅広く受け入れられている人もいる。小林秀雄福沢諭吉も元々が作家ではないし、石原慎太郎はその素質が物書きではなく、本当に「行動する」政治家にあったとも言える。
ただ、残りの方々はというと、書いているうちに限界を感じたり、普遍性をもてないまま終わったり、そんな具合だ。後者にいたっては同人仲間の自慰行為でしかなかったわけである。
そういう意味で、「文体」は「行動」することも必要ではあるが、それが十分条件ではないということですね。
読み手に媚びろ(これは現代の流行作家のほとんど)というわけではない。読み手を引っ張って来い、読み手をついてこさせろ。そう言いたいんよね。