ウェルバランス

昼間から特に何をするということもなくコーヒーでも啜りながら小沢征爾の指揮するパリ管弦楽団チャイコフスキーを聴いていた。

チャイコフスキー:交響曲第6番

チャイコフスキー:交響曲第6番

休日の午後なので多少音量をあげてもまあええやろと思って、普段より大き目の音で聴いていたせいかもしれないけれども、演奏が生き生きとして聴こえる。
「ああ、これがシンフォニー<調和>なんやなあ。」
誰もが自己主張するわけじゃなく、オーケストラ全体が一つになって演奏を生み出す。これが心地よいわけよ。
ジャズやロックのようにソロを取って各自の腕前を披瀝してくれるのもいい。しかし、そういった曲が名演かというとそうでないことが多い。単に一人の「名演」で、曲全体としてはいびつになる。特に録音モノでは。
ライブの場合はまた話が違ってくる。そこには演奏者と客席の一体感というのがあり、会場全体が一つになる。だからこそライブは楽しいんよね。
「部分よりも全体」
これが僕の達した結論の一つである。一人の優れたソリストが卓越した技術をみせるよりも、そこそこの集団がまとまって大きな「一」を作るほうが素晴らしいものが出来上がる。そう思うんや。もちろん、凄腕が揃って一つにまとまれば最高なわけやけど。
それは何も音楽だけではなく、むしろ、他のところから連想してきたことで、例えば、競馬。パドックを観ていて一番重視するのが「バランス」。トモだけ異様に発達した馬よりも、全体のバランスがよく見える馬の方がよく走る。部分だけをとってみれば素晴らしい馬でも、全体的に整っていなければ走らない。馬体、気性、騎手、展開。いくら武豊騎手が乗ってもダメな馬は走らないし、馬自体がよくても騎手がヘタクソではダメなことが多い(もちろん走ることもあるけど)。
ものすごく細かいところまで目が届くというのも大事なことかもしれないけれども、もっと大切なことは「全体を観ること」やと思うんや。極端にいえば、細部なんかどうでもええと思ってる。全体がまとまっていれば。
生き方として、そういうふうにできればええなあと思うし、駄文とかを書いていくときでもそこに気をつけていければもっとええもんが書けるんとちゃうんかな。