山口瞳「江分利満氏の優雅な生活」

江分利満氏の優雅な生活 (新潮文庫)

江分利満氏の優雅な生活 (新潮文庫)

山口瞳というと、競馬関係の著作もあるが、個人的には別の思い出がある。
我が社のボスがする話の中に、たまに出てくるのである。
だいたいは登場パターンが決まっていて、「昔、山口さんの近所に住んでいたときに、よく縁側で将棋を指した」であるとか、「彼は夫婦喧嘩やらなんやをあることないこと書いたから困った(と全く困っていない様子で話す)」であるとか。
最も頻度の高いのが「山口さんが入社したての頃は朝いちばんに出てきて全員の机を拭いていた」というもの。訓示や新入社員の前ではかなりの率で登場する。それを真似して2時間前に出社してきて机を拭き続けたツワモノがいるとかいないとか。オレはしない。しんどいもん。
その「机拭き」の話。ちょろりと出てきた時には「おお、もう…」とニヤリ。端々にウイスキーが出てきてまたニヤリ。世の中の人とは全く違うポイントで楽しんでいたような気がする。
さて、読み終わって、まあ、競馬の話がほとんどないことにも驚いたが、さらに驚いたのは、こんなにも平凡な登場人物ばかりの話で本になるんやなあということ。凡庸ではない。平凡である。丸の内で石ころを投げたら当たるぐらい平凡である。平凡はまた普遍的でもある。普遍的であるからこそ時代を超えて読み継がれる。
もちろん高度成長期のサラリーマンが主人公であるから、そこからオイルショックやらバブルやら何やらを経た21世紀とは全く社会の様相は異なる。それでも各家庭には同じようなやりとりが繰り広げられるし、いつの時代になっても酒乱はいる。そういうのをヨイショと引っ張ってきてフィルターにかけて、なるだけ一般化したものを面白おかしく書いてみた、とそんな感じである。だから競馬の話がないんやなと納得。
途中、「これは小説やない。エッセイや。けど、フィクションなんやからエッセイでもない。うーん」とうなっていたが、巻末の解説を読んでみたら同じことを考えていたようで、「風俗画家」と言われている。分かる気がする。そして、これは確かに真似できない。センスがなければ書けない。そんな文章やと思う。
この文体であるから、この内容、展開であるから、逆に観察記のようなアレになるのは、仕方ないというよりも必然的でさえある。もう個性としか言いようがない。
あまり明るい話ではないけれども、読み終わった後にスッとした感じがするのは、この個性ゆえではないかと。
「なんやキミ、『江分利満氏の優雅な生活』読んだことないんか」という何のこともないボスの一言であった。新入社員に言われたわけで、心の中では「そら今の二十歳そこらの子らが読んでるわけないやん」とツッコんでみたが、よくよく考えてみたらワシも読んだことがない。そら読むやろ。「読め」と命令されたら読みたくないが、「読んでないんか」と行間で「まだまだ甘いで」と指摘されたら意地でも読むやろ。
と思いつつ半年以上。まさにそれはオレも半年ぐらい前から思っていたこと。そんなボスもこのたび勇退することを決めたそうで、記念に読んでみたわけよ。