渡辺保「女形の運命」

女形の運命 (岩波現代文庫)

女形の運命 (岩波現代文庫)

「大師匠」を「だいししょう」と読むと失礼に当たる。「おおししょう」と読むのである。
「大先生」を「だいせんせい」と読むと某会長の別称になるのも同様。
かつて「大成駒」と呼ばれた役者がいた。ワシが知った時にはもうすでに引退同然になっていて残念ながら生の舞台を観ることはかなわなかったが、記録として残されている写真や映像に触れる機会はあった。そして話には大名優であったと聞く。
かろうじて、その最期だけは知ることができて、年度末の忙しい最中で、桜が咲く中を雪が舞うという寒い日だった。「まるで道成寺の花子になって逝くような」と誰かが言ったような言わないような。
その大成駒の若かりし頃から全盛期、晩年の入口までを観て、それを題材にとって日本の近代化論に仕立て上げているわけだ。あくまで歌舞伎も大成駒も借物。そこを踏み台にして日本という枠組みを論じる。単なる劇評と考えたら鬱陶しいだけで、理屈っぽくてと言われるが、そう考えるからダメなのである。これは全く別物として、文化論として読むべきなのではないかと思う。
ただ、そう読んでいても「それはちょっと深読みしすぎやろう」と鼻につくところがあるのはまあ、しゃあない。そういう人やから。ある種、書いている自分に酔っているというのか、それがないと渡辺保ではない。だから嫌いな人はとことん嫌いなんやろう。分からんこともない。
しかし、八代目半四郎から五代目歌右衛門とつながってくる流れの中で捉えた近代化はなるほどとうなづいてしまう。こじつけかもしれないが、確かにその時代をよく表しているなと。
そう考えると、さらに進んで平成の現在、中心の喪失から日本の文化はどこへ流れていったのか。「私たち自身の三角形の論理」は果たして見つかるのか。たぶん、まだ見つからないし、もう見つからないかもしれない。多くは中心の喪失に気付かないまま中心の幻影に囚われている気がする。同じ歌舞伎の舞台を観ていても個人主義の多いこと。それは現代演劇との境界線が明瞭でなくなりつつあることも一因かもしれないが、結局のところ、型の意味を考えずに、型の解釈というか型をタテに自分のやりたいことだけを押し通している。保流でいうなら大成駒の間違ったところだけを都合のいいように取り出してきて金科玉条にしてしまっている。それが淀みにはまったまま延々と同じところで同じことの繰り返しを続けているともいえる。
でも、それが本当に悪いことなのか。美しくないのか。それも単なる判断、価値でしかないから、時代とともに移り変わっていくと思うのだ。50年前には醜いと判断されていたことも今は美しいと捉えられることだってある。普遍的な美だとか真実などというものこそ人間の生み出した幻である。そこははっきりと頭にとめておかなければならない。