シェイクスピア「じゃじゃ馬ならし・空騒ぎ」

じゃじゃ馬ならし・空騒ぎ (新潮文庫)

じゃじゃ馬ならし・空騒ぎ (新潮文庫)

シェイクスピアのすごいと思うところは、400年経た今でも現役であるところ。単に古い芝居としてではなく、伝統演劇の一つとして、現代の演出で上演されているわけだ。本物は観たことないけど。日本ではやらんからな。
つまり、シェイクスピアが生きのこっているのは、そこに普遍性があるからであり、人間の本質を突いているからであろう。それがすごいんよ。
例えば、現代のいわゆるベストセラーとよばれる本のうち、50年後も読まれ続けているものがいくつあるか。年間何百万と新刊が出ているやろう(この数は根拠なんかないが)けど、淘汰されて後世に残されるのは数えるほどということ。50年前の新刊を考えてごらんなさい。戦後の高度経済成長期に入る頃の作品といえば、三島やら川端やらあるけど、どんだけの本が、作家が残されているか。
たぶん、テレビドラマの原作のために書かれたものやら、今の時代の風俗を題材にしたペラペラのもんは、10年もしたらないで。現代性がないとダメだとかいう人もいるやろうけど、現代性しかなかったらそれは単なる書き散らし使い捨てのチラシの裏でしかない。チラシの裏に金払ってるんやで(笑い)。
そういう本もあっていいと思うけど、小説は現代性やら政治性だけではアカンとも思う。人間を描くのが小説の一つやろうと。いや、もっと言うなら人間のえぐいところを抉り出すのが小説の役割やと。汚いとこもきれいなとこも、全部並べるんよ。バーンと。そこから読者は自ら体験しえないことやらを通して学んでいくんよ。人間自体はいつの時代も変わらんから本質を取り出せたら、それはもう普遍性を帯びた作品になるというわけ。
そんな普遍性は現代性を求めなくても、勝手に現代的になる。時代が勝手に作品に重なってくるんよ。ツンデレという言葉がちょい前に流行ったけど、400年前にツンデレ戯曲書いとるんよ、この人は。それはツンデレっちゅうのが言葉はともかく、いつの時代にもそういう女が一定数おって、そういうのに惹かれる男も一定数おるということやろう。たまたまとある時代にクローズアップされたというだけでな。
流行ばっかり追ってるだけのくだらん本を100冊読むより、古典を1冊だけでも読んだほうがよっぽどためになるわとワシが思うのんは、そういうところにもあるんよ。うわべだけ見てても何にも理解できんよ。時間というフィルタで漉されてきた古典には残されてきた理由が絶対にある。そう思うんよ。
で、ワシの思ったこと? 思い込みは怖いなあって。目の前で見たもんが真実とは限らんのやからね。現実と真実とは違うというのか。人間はえてして自分で見たもんは過信してまうからなあ。