江藤淳コレクション2 エセー

GW来日前に読み終わっていたのを忘れていた。
なかなか面白かった。ゆえに最近まれにみるスピードで読了。
江藤淳のルーツを探る、というのか。いいよな、探るだけ価値あるねんもん。元海軍将校とか出てきたりなあ。ウチなんか探ってもせいぜいド百姓しか出てこおへんよ(笑い)。
しかし、自分の、日本の、落ち着くべきところはどこなんよという、今で言うなら「自分探し」ではないけど、位置を定めるのは評論家の仕事である。プライヴェートな話であるのに、国家単位の歴史から俯瞰して位置を探りつつ、また自らの足も使って細部まで調べる。そうしてはじめて定められるというのか。
何気なしに書いている文章の奥底にはそんな歴史の堆積物が詰まっているんかって。
そういうのを自分の中に取り込んで、うまく消化していって、見直してみたら、確かに最近の流行りの本って薄っぺらいよなあ。物事の表面だけしか見てないし、単に事件が解決したらそれで満足というレベルの話でしかないもん。例えば殺人事件を扱ったとして、犯人の生まれてからの経歴とか人間関係ぐらいまでやもん。その奥底に潜んでいる人間の本質であるとか、国や地域の特性であるとか、そういったバックボーンは一切考えられず、あくまで個人主義。悪い意味での個人主義。自分が今存在しているのは、今まさに自分の生きてきた過去があったから。それだけ。そうじゃない。自分の存在する前に、遥かに連なる親族がいて、彼らの生きてきた環境があって、そこから伝えられてきた家風であるとか、時代の影響を受けた先祖の生き方、生きた場所。そういう土台が地下に埋まっている。そこから考えて、じゃあ、その登場人物はどのように行動する? そんなところまで考えて作られてないやろうし、大体、年間に何本も小説を大量生産できるということ自体、そんなん考えている余裕なんかありませんという証拠でもあるだろう。
物質の大量生産はええよ。世の中のニーズを満たすように供給する。それはもう経済の原理にかなったこと。しかし、文化の大量生産。これはいかんよ。大量に作れば作るほど、中身のない同じような内容のものばかりであふれる。均一化するようなもんでもなし。いや、むしろ均一化とは反対の方向に向かうべきはずの、向かわなければ意味のないはずのものではないのか。
そんなことを考えたりした。