村上春樹「走ることについて語るときに僕の語ること」

走ることについて語るときに僕の語ること (文春文庫)

走ることについて語るときに僕の語ること (文春文庫)

俄ランナーも騙りますよ。
読んでいてなるほどなあと思うところが多い。人はなぜ走るのかとか、何を考えながら走るのかとか。不毛な問いである。特に理由なんかないし何も考えてない。まさにその通りなのではないかと思う。
きつい坂道があってそこを登りにかかる時に「しんどそう」とか、あるいは、ゴールが近くなってくると「いよいよ」とは思ったりするが、確かに何か複雑なことや小説の筋やレースの予想なんかを考えながら走ることはない。そんな余裕はない。むしろ、そういった日常的な事柄から解放されて無心に走っているから、人は走り続けられるのではないかとワシは思う。仕事や家事といった日常を一時でも忘れられる時間がなければ、現代社会はあまりにギクシャクしすぎているし、あまりにストレスが多すぎるので、極端な話、行き続けていくことが難しい。そういった負荷を忘却できる時間が走っている時間なのではないだろうか。
毎日1キロでも5キロでも10キロでも、ジョギングをしたからといって健康になることはないと思う。最近流行りの「エクササイズをして健康」というのならば、別に走らなくても散歩でいい。20分歩けば十分な運動ができる。脚元への負担を考えればどうやったって走るより歩いた方がよさそうだ。ダイエットしたいというのならば、これは小出監督の受け売りだが、太ったまま走ったら膝や足首を故障してしまうのであまりよくない。走っているときには自重の3倍の力が膝や足首にかかる。(これは村上さんの文章中にもあった。)80キロの体重の人が走ると240キロもの負荷がかかってしまうが、到底そんな過負荷に耐えられる脚づくりをしているわけがない。(できていたら別に思い立って走り始める必要などないはずだ。)そのような世の中の動きにはものすごく否定的なのだが、村上さんのいう「走りたいから走るのだ」ということは理解できる。嫌なら走らなければいいだけのことだから。クラブや仕事のために走らなければならない一部の人を除いては。
読んでいて10キロを走ってみたくなったので、午前中からやってみた。1時間でゆっくり回ってこようと思ったのにどうしても早くなってしまって50分で走りきってしまった。が、久しぶりに10キロを走ったので脚が痛い。100キロというと想像もつかない。一体どうなるのか。とりあえずハーフでどうなのか、というところからか。順番としては。きっちりとステップを踏んでいくことが大事だ。(必ずしも結果が伴うわけではないということは本文中に書いてあったとおりだが。)まあ、100キロを走ろうとか思ったりはしないと思うけれども。