みんなとあそんでもらえてとてもうれしかったからです。

 引き続き、石川忠司「現代小説のレッスン」。

二章 保坂和志の描く共同性と「ロープ」

 不勉強なもんですんませんが、保坂和志の作品は読んだことがない。でも、言わんとすることは分かった。要するに「村の寄り合い」であると。
 理論的に話を進めていけば当然、何らかの「考察」が行われる。人間関係であったり登場人物の性格であったり、まあそんなところだ。この「思弁的考察」は近代小説の特色の一つでもあった。保坂和志はこれからの脱却を試み、さらに共同性の構築をも試みた。その方法は、「理屈による循環から抜け出すこと」である。「村の寄り合い」というのは次のようなことだ。すなわち、Aという話題について議論していると突然、「Aと言えば○○さんのところの…」と話が脱線していき結局は何について話しているのかよくわからなくなるというものである。乱暴に言えば「雑談」ですな。読者を「雑談」に引き込むことによって「共同体」を共有しようという試みなのである。
 分かるぞ分かるぞ、その気持ち。そう、阪神ファンの会話だ。

・(例)僕とトプロ基地先輩の昼の一時(2003年6月頃)
 僕とトプロ基地先輩で昼飯を食い、英国屋で僕はホットコーヒーを、トプロ基地先輩はホットミルクティーを飲む。夏でも。従って、我々が入店すると水と同時にそれぞれが運ばれてくる。で、デイリースポーツを読みながら会話するわけだ。
阪神がこんだけ連勝してると怖いなあ」
「ホンマですわ。明日も勝つ! って昨日、お立ち台で言うてましたから今日から大型連敗ちゃいますかw」
「おおそうや。新庄の呪いの呪文」
「槙原の敬遠球を打った時ですね、アレたまたま家に帰ったらテレビつけたらMXテレビでやってたんで見てました」
サンテレビもやで。何と言ってもサンテレビはあの八木様の幻のHRのヤクルト戦を最後まで中継したんやからな」
「アレ、日付変わってましたよね」
「そうそう、引き分けやし、余計に次の日キツかったわあ」
「あれが入ってたら18年待たんでもよかったのに」
「ホンマやで。アレがあるから今年も信用でけへんのや。去年もそうやったし」
「オールスターまでにはやっぱり…」
「言うな。その先、」
「でも星野監督の蹴りとか怖いし井川も調子エエし、行けるんとちゃいますか?」
「星野の蹴りは怖いわな。大西と橘高ボコボコにしたんやったっけかな」
「そうです。立浪のデッドボールで、何でかしらんけど大西が飛び蹴りしよったんですわ。まあ、橘高は蹴られてもしゃあないですけどw」
(以下、延々と続く)

 全員が全員とは言わないが、大概の阪神ファンが甲子園などで繰り広げる会話はこんなもんである。バース掛布岡田まで遡ったり、オッサンになると江夏、村山なんかも登場したりする。で、一周して元に戻る、と。でも、こうすることで全然見知らぬ人間同士が甲子園のスタンドで以前からの知り合いのように会話してたりするのだ。まあこんなのを哲学的文章にしようたってそら無理や。小説なら許される。でも、それって結局、何が主張したいんだ?そもそも主張することがないからこのような「共同体」が成り立つわけで、ただ書きたいから書いている。公開オナニー。冗談はさて置いて、こういう「共同体」が世の中には存在するし、存在しなければ息苦しくてしょうがないということになるのかな?
 読んでいて2,3思ったことがある。まず、最近、よく口にされる「スローライフ」。それってこういう「共同体」のことなんじゃないかなあ。何にも進まない。時間だけは過ぎる。そしてみんな死んでいく。いいねえ。この無為。でも、こういうゆとりがなければ。ギスギスした世の中、同じ死ぬんなら酷い目にあって死ぬよりもさ。合理化だとか「時は金なり」とか言ってても脱線して人殺してもなあ。「時は金なり」。時間は金で買えるんよ。でも命は買えない。「スローライフ」って世間一般では「ゆっくりと食事をしましょう」とか「趣味を持って自分の時間を過ごそう」とかいうように解釈されてるけど、逆にそれもプレッシャーかけてることに気付いていない。だから「みんな趣味があるのに自分だけないの…」とかあせっちゃう。違う。「スローライフ」は極端に言えば「無為に時間を過ごす」んだ。心にゆとりを。
 次に10年ほど前に「終わりなき日常」という言葉が議論されていた。宮台真司が言い出したのかな? 低血圧で朝に弱い僕も朝一の彼の講義を聴くために週一回だけ早起きした。その時に例として挙げられていたのが「めぞん一刻」とか一連の高橋留美子作品。弱いヤツはいつまでたっても弱いままだし、もうおんなじことの繰り返しよ。何か変化が起こりそうになる。でも結局は元通り。「一刻館村の寄り合い」ということだ。何か似てない? 保坂和志の出てきた頃と時代が被ったりしない? 僕の昔の生活もそうだった。麻雀して寝て起きて麻雀して以下繰り返し。しかもメンツがほとんど一緒w ということはこういう生活をしてる人間がまだ最低でも3人いたわけだw 何でおんなじことを繰り返すのか? 人間は孤独に耐えられないからじゃないかなと僕は思う。誰かにかまってほしいのだ。だから一遍作り上げた「共同体」は終わらないようにおんなじことを繰り返す。勝ち組は勝って嬉しい。負け組もかまってもらえて楽しい。西原理恵子出世作となった「まあじゃんほうろうき」の最終回が全てを言い尽くしている。

今にして思えば、ここに来るまでに、たくさんの人に注意をされたと思います。
どうしてとりどんはそんな親切な人達のゆう事をきかなかったのか、考えました。
たのしかったからです。
みんなとあそんでもらえてとてもうれしかったからです。
(略)
はねは、むしられても
またはえてくるもんです。

 でも、「共同体」をテーマにしてもそれ以上の発展はないわけだよね。発展したら「共同体」が壊れちゃうし。これが大きな欠点。というか、「欠点」とかそういう理屈がそもそも「共同体」の中には存在しない。何というか異次元の世界。これはこれでアリなんだろう。
現代小説のレッスン (講談社現代新書)

現代小説のレッスン (講談社現代新書)


※書きながら「展覧会の絵」を流し続けていたら部屋のドアをガンガン殴られますた。ちょっと音量が大きかったかな?でも落としてるんだけどなあ。みんな、心にゆとりを持とうよ。ゴメン、隣の人。すんごい東南アジア系の顔してるんだよね。どうでもいいことだけど。