最終回。オレ流、勝手な読み方大どんでん、返し

 ようやくラスト。石川忠司「現代小説のレッスン」を読んで延々と自分勝手な解釈をして駄文を綴り続ける。

五章 神の狂ったロジック

 まず、舞城王太郎を挙げて純文学の「エンタテイメント化」の最後に残された「内言」について述べられていく。登場人物の「内言」だけで物語が進行されていくのが舞城の特徴であるとする。ここで思い浮かんだのがジェイムズ・ジョイスユリシーズ」である。ジョイスも登場人物の「内言」によって物語を進めた。舞城の意図したことはすでに前世紀の初頭に一人のアイルランド人によってなされていた。奇しくも「ユリシーズ」は語り物としての物語である「オデュッセイア」の型を下敷きに綴られている。そしてアナグラムや名作のパロディなど徹底した「エンタテイメント化」。そういった意味ではジョイスより一世紀周回遅れで走っているのが現代の日本文壇なのかもしれない。
 そして最後に石川忠司は「純文学の『エンタテイメント化』を別の側面から見る」と称して、私小説ではなく西洋の近代小説を目指しその根源に立ち返る必要があると説く。しかも日本語は本質的に私小説へと指向すると言うにも関わらずである。さかんに「神の視線」とあるが、そもそも多神教の根付いた日本の風土に一神教の「神の視線」がマッチするとは思えないのだが…。試みとしては面白いが。ただ、西洋の型をそのまま取り入れようとしても不可能であることは、20世紀のヨーロッパを代表するジョイスの作品群を日本語に翻訳することがいかに困難であるかということからも明らかだ。同じく「エンタテイメント化」を目指しながら欧米と日本とでは文化も言語も違いすぎる。柳瀬尚紀によるジョイスの翻訳はジョイスの意図したことを踏まえてのもので素晴らしいのであろうが、実際に読んでみるとヤンキーの「夜露死苦」「仏恥義理」みたいな当て字や語呂合わせの羅列でとてもじゃないが読む気力など湧いてこない。
 しかし日本語には欧米語にはない長所もたくさんある。例えば、欧米語では文字は表音記号に過ぎないが、日本語は同時に表意記号としての役割も果たしている。ゆえに石川忠司は日本語は表意でもなく表音でもない中途半端な言語であるとし「ペラい」とこき下ろしている。しかし、中途半端であるが故に独特の「間」などの独自の美を日本人は築いてきた。日本の美的様式の特異性にも着目すべきではないだろうか。日本の古典や伝統芸能にはこのような日本語の特色を生かしたものが数多く見られる。掛詞、枕詞などは欧米にも見られるが日本の場合、そこには表音だけではなく表意文字として働き、視覚による効果を持つものもある。中途半端な日本人の持つアバウトさは、一定の型にはまらない自由度の高さを生む。これは書く者、読む者、あるいは演じる者、観る者によって様々な解釈を生み、時としては誤解の元となるが、嵌れば「ト、よきこなしあって」という一文で無限に近い可能性をも生むことになる。この無限に近い可能性から生まれる美の追求は日本文化のポジティヴな姿勢としてあるべき形ではないだろうか。
 とうとう最後まで脱線してしまった。いや、脱線どころか乗換を間違えて東海道新幹線に乗ったつもりだったのにビールを飲んで寝て起きたら雪国だったぐらい全然違うこと書いてるなあw まあエエことよ。

現代小説のレッスン (講談社現代新書)

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