まだ途中ですよ

久々の発作の翌日、つまり昨日から伊坂幸太郎「オーデュボンの祈り」を読んでいます。
まだ6,7割しか読んでいませんが、これは書いておきたいって思ったので。
彼は僕か?*1
正確に言えば、伊坂氏は2000年に本作でデビューしたわけですから現在僕が考えていることは彼の後を追っているだけかもしれませんが。
思考パターンというのか、登場してくるものが僕の思考の指向によく似ている。ちょっと前に読んだ「ラッシュライフ」でも同じようなことを感じた。あの時は「時間軸の意図的な交叉」について。今回はもっと多くの点で共鳴する。
例えば、静香。誰かに認めてもらうこと、存在を待たれることが自分の存在意義。あははは。10年ぐらい前の僕だ。プライドばっかり高くて本当は弱くて生活力のないバカ。僕の場合はすぐに打ちのめされて這い上がってはまた叩き落されて。おんなじことの繰り返しよ。
優午。未来はいくつかの枝葉に分かれていてどれを選ぶかによって全く違うものになる。これは麻雀で実感してきていることですね。僕の座右の銘「人生博打」というのも突き詰めればココにたどりつきます。ただそれは偶然に左右されているのではなく、自分で選べるということ。これは大事なことです。選択肢を自分で選べるからこそ優午は未来について語らないんだと今のところ僕はみています。未来を語ってしまったらいくつもの枝葉はなくなり1つの道となる。それが間違っていてもだ。人間にその善悪の判断はできない。だから未来については口を閉ざすのじゃないでしょうか。
1年ぐらい前に論理学に興味を持って論証力トレーニングみたいな本を読みました。「嘘つきの原住民」の話なんか面白いなあと思っていたら、出てきました。園山。反対のことしか言わない元画家。「私は嘘しか言いません」。「嘘つきの原住民」の話と全く同じです。「嘘しか言わない」と本当のことを言っているとしたら、それは嘘じゃないから「嘘しか言わない」ことと矛盾する。嘘をついているとしたら「本当のことしか言わない」となりまた矛盾する。もっともこれは正解ではなく、前者は確かに矛盾しますが、後者の場合、全否定ではなく一部否定と捉えれば矛盾しないのです。つまり「嘘しか言わないわけではない」とすれば本当のことを言うこともあることになり、「嘘しか言わない」というのは嘘になります。これが本筋に影響してくるのかどうか今のところ分かりませんが。
いい加減この辺で打ちのめされてきました。何よりも、同じような思考であるのに、彼には読ませる「文章力」があり、デビュー作から注目されるという「運」もある。羨ましいし、嫉ましいw 読んでいて「チクショー」って感じる。この感情、本質的に僕が静香なんですね。最も何にも行動していない僕にそんな嫉妬をする権利なんかないんですけど。いや、何にもしていないことはないな。ここで駄文を撒き散らしているw 彼のような人がいるのなら僕が駄文を撒き散らす必要なんかないかもしれない。おんなじようなことを言っているわけだし、向こうの方が明らかに才能も行動力も運も持っている。
けど、彼が持っていないものを僕は持っている。キチガイ阪神ファンだということだw これなら負けへんよ。全国の、全世界のキチガイたちに伝えたいことが僕にはある。だから駄文を撒き散らし続ける。
駄文といえば、「夜景」。これも僕の嗜好にあうことが書かれている。日比野がデートをする場面。「夜」なら負けていない。僕がかつて所属していたミニコミ誌で一番最初に僕が書いたテーマがズバリ「夜」。1995年のことですから5年勝ったw 深夜に私鉄の「線路」を端から端まで歩くという題材のドキュメントです。これは物証が残っているから強気で出られるぞww 今読み返すとどうしようもなく下手くそな文章で読めたものじゃないんですが、このアイデアについてだけは諸先輩方から褒めてもらいました。社交辞令を言うような方々でもないので多分、率直なところだと思いますし、今の僕から見ても突拍子もない思いつきやなあと感心します。構成は今も昔も破綻していてキチガイっぷりを発揮しています。
そんな僕にとって一番印象に残っている「夜景」。神戸でも長崎でも横浜でも函館でもありません。多摩川の河原。三鷹市役所の近くに住んでいたころに見た夜景です。夜更けにチャリで東八道路を西進し武蔵境通りを左に折れると深大寺の横を下りながら調布市内へ抜けます。途中から名前を鶴川街道と変えて多摩川を渡り稲城市を貫く道路ですが、調布市側に野球場やサッカー場などのグランドをもった河川敷公園が広がっていてその一角から多摩川へと降りていけるのです。不真面目な大学生のお手本だった僕はよくそこへ行ってボーっと川面を眺めていました。河川敷グランドの向こうは小高い土手になっており、稲城市のほうは住宅街で、僕がそこへ行く時間帯はほとんどの家の灯が消えていてわずかに街灯や多摩川原橋のナトリウム灯が輝いているばかり。ほの暗いテトラポットの上で僕は何にも考えていなかった。ただ川だけを見ていた。車が途絶えるとせせらぎが聞こえる。夜の静寂を破るたった一つの音。傍からみればただの時間の浪費ですが、当時の僕にはこれが必要なことだったのです。東京という眠らない街に疲れていたのか心も身体も休ませてやることが必要だったのです。こうやって心のバランスを保ってきたんでしょうね。今はそれができていないから本当に気が狂ってしまっている。あ、なんか「オーデュボンの祈り」に近づいてきていませんか?*2
はっきりと言葉には表わせないけれども萩島に「欠けているもの」というのは現代社会に「欠けているもの」でもないかなと思っています。今は。この先読んでいかないとそれが正しいのかどうか分かりませんが。
そう言えば、一度だけですが、その多摩川の河原に「伊藤がこぐ自転車のライト」が差し込んできたことがありました。特大の「ライト」です。多摩川に映ってその流れにゆらゆらと揺れていました。大学に入って最初の成績表が返ってきた頃のこと。こういう生活をしていたわけですから単位なんか来やしません。随分と世間をなめてましたね。僕のプライド、と言ってももうその時にはほとんど残っていませんでしたがその僅かに残されたものも、僕の存在意義なんかも皆無にさえ思えた頃でした。川の流れに従ってゆらめく月の影は世間の流れに、あるいは自分の欲に流されて揺れ動く僕の心。写真よりもずっと強く僕の心に焼き付いている光景です。これ以上の月見をしたことは今までありませんし、今後もないでしょう。
まだまだ「夜」の話は尽きませんが、読みかけた物語の続きが気になるので今日はこのあたりで。明日の仕事に差し支えないように途中で読書を中断できるようになったのは思慮深くなったのか、それとも単に歳のせいかw

*1:いいえ違いました。翌日参照。

*2:むしろ遠ざかっていました。翌日参照