伊坂幸太郎「オーデュボンの祈り」

先に言っておきますね。僕は書評とか評論を書いているつもりは全くないのでレビューとしては役に立たないと思います。僕はこの作品をよんで自分が考えたことを書きたいだけ。自慰的な妄想です。キチガイの戯言です。

オーデュボンの祈り (新潮文庫)

オーデュボンの祈り (新潮文庫)

さて、昨日の言葉を撤回。
彼は僕ではない
後半部分、城山が大活躍をみせるころから何となく予想はできていた結末。ただ、「欠けているもの」は僕が思っていたものとは違った。僕が予想していた「もの」、というか「こと」は「未来を想像するチカラ」だった。それは昨日書いたように現代社会においても「欠けているもの」だ。が、まさかそういうオチになっているとはなあ…。もっとも作者の言いたかったことの一つが「未来」についてだということは間違いない。予言できたって変えられなきゃ意味がない。変えるんだ。意思を持って。でも悲観的なんですね。どうあがいたところで未来は変わらない。人の力なんてちっぽけなもんだと。
最後の一文字まで読み終えた時に全てが連鎖する。天気が悪くなると虫が低いところを這い回り、それを捕まえようとするからツバメが低く飛ぶ。ゆえにツバメが低いところを飛ぶ日は雨が降る。まさにその通りじゃないか。全ての事柄が意味を持っている。ムダがない。その点で、僕が考えていることと180度異なるのだ。もう一度繰り返します。身体も心も休養が、言い換えれば、ムダが必要だ。だから昨日の言葉は白紙。
同じようなところから飛び立ってして全然違うところに着地した。何ででしょうね。どちらが間違っているとかそういうことはないだろう。ナポレオンは3時間の睡眠で事足りたが常人にはそれでは足りない。ムダがたくさん必要な人もいればほとんど必要でない人もいる。けれども、多かれ少なかれ必要だとは僕は思っているが…。
「オーデュボンの祈り」はファイナルファンタジーに似ている。主人公が定められた世界の中を歩き回って情報を集め、謎の解決に向かっていく。序盤は穏やかに進行していた流れは途中から急加速しクライマックスへと突き進む。その中に物語の進行に関係しないものはない。僕の旧知である【牛乳の宴】氏いわく「暴力的」な展開。
僕は思う。読者に一つの観念を固定させる必要はないんじゃないかと。もちろん、本筋や主張については読み誤らないようにした方がいい。が、読み手にも「遊び」を与えてくれてもいいんじゃないか。100人が読めば100通りの楽しみ方ができるようなところもあっていいんじゃないか。またゲームに例えると、こちらはドラゴンクエスト。100枚の小さなメダルを集めてもゲームの筋とは関係ない。でもそういう楽しみ方もできるんだと。いやファイナルファンタジープレイステーションに移った頃からは全アビリティ制覇とかそういう遊びはありましたが。それは正常進化なのではないだろうか。窮屈なストーリー展開から外れたムダな部分が必要とされたから作られたのではないだろうか。
でもそのことについて伊坂氏はもう気付いている。「ラッシュライフ」にしゃべるカカシの話が出てきていたもんなあ。これって遊びゴコロじゃないか! そういう意味では作者も正常進化しているといえるんじゃないでしょうか。
細かい点をみていくと、暴力的ですね。論理的思考の破壊。園山の嘘のパラドックスは思いもよらない形で結末をみた。このパラドックスの前提自体を壊してしまうとは。同じようなことは城山の存在そのものが警官という社会秩序の崩壊の象徴として描かれている。しかもこれを暴力的なルールをもって破る。これを暴力的といわずして何という。正直、城山の件は読んでいて心臓に、精神的によくなかった。最後にスカッとするのは日本人の性。勧善懲悪大好き水戸黄門大好き人間の性。桜の拳銃は黄門様の印籠だね。「この紋所が目に入らぬか」「理由になってない」。そもそもこの作品がミステリーとして扱われた、というか応募された時点で既成のミステリーを打ち破る暴力的なことなのだ。確信犯だな。それでいてミステリーファンがこれを嫌うかというとそういうこともないだろう。謎解きの要素はふんだんに盛り込まれている。
うーん、まいったなあ。お手上げ。とにかく面白い! 読ませる。グイグイと惹きつけられる。ものすごく間口の広い作品だろう。それなりに分量があるけれどもその見た目に臆することさえなければ普通の十代の子らでも必ず読み通してしまうに違いない。教科書に使ったらいいのになあと思う反面、これは切り売りはできないから一冊まるごと教科書かあってw 三島由紀夫の作品がどれだけ素晴らしいといっても読まれなければただの紙屑だ。まずは読まれること。いやいや三島由紀夫が紙屑なんて言うてへんで。むしろ僕は三島由紀夫はまだ誰も越えられていない日本最大の物書きやと思ってるから。
伊坂氏の作品についてえていうなら、芸術としての「美」に欠けている。もっとも本人がそんなところは目指していないとは思うけれども(苦笑)。そこは価値観の違いでしょうね。僕は職業柄、そこは常に気になるし、また、求めていかなければならないところでもある。今のところ強制ではないけれどもそういう意識は持っている。そこらへんが冒頭にも書いた同じようなところから飛び立って全然違うところに着地したことの一つの原因なのかもしれない。