芥川龍之介「戯作三昧・一塊の土」

戯作三昧・一塊の土 (新潮文庫)

戯作三昧・一塊の土 (新潮文庫)

あばばばば。
タイトルだけみて噴いた。
即、クマーに置き換わるところが重症である。
まあ、いい。それはそれでユーモアのある作品やったと思う。
それよりもだ。
芥川のすごいところは、心理描写の細やかさにあると思う。
今時のはやりの作家はほとんどみな「ストーリーテラー」である。つまり、物語作家、というか、もっというなら「事件簿作家」である。殺人やら窃盗やら事件が起きて、その経緯やら顛末を語るのは巧い。が、おしなべて登場人物の心理描写は軽薄である。上っ面をなぞっていくだけの作家さえいて、それが売れているんやからいかに今の社会が薄っぺらなのかよく分かる。
ここ収録されている作品で、たとえば、「枯野抄」なぞ飛びぬけて心理描写に徹しているといえる。わずか10ページちょっとの超短編で、起きている出来事は、ただ芭蕉の最期にのぞんで弟子たちが末期の水をとるだけである。その中で登場人物の心理状況をえぐりだしていく。それもありふれたものではなく、どこか芥川流のシニカルな心理である。最後にたどり着いたのは、大師匠が去り行くのが悲しいのではなく、あまりに大きすぎる師匠の存在から解放される自由を感じる喜び。そんなエゴイズムである。悪いわけじゃないし、よく考えてみたら確かにそうであろう。親父が偉大な二世で、大成したやつはおらん。カツノリもみじめや。ホンマ、そのレベルである。もちろん、ここには芭蕉に見立てた漱石という自身の体験から感じ取ったものもあるやろう。
そんな短編が詰まっている。といっても過言ではない。
今の読書家は、マンガから入ってくる人も多いと思う。マンガはほとんどが物語の世界で、心理描写に突出した作品は少ない。だから、前述したような上っ面だけの本が売れるわけだが、心理描写だけのマンガもあったりはする。
カイジ」なんかがそう。1ヶ月かけてようやくジャンケンのカードが決まる、そこまでの逡巡。これこそまさに福本流「枯野抄」ではないか。何年かけても1時間かそこらしか進まない。これほどじれったい「物語」はない。いや、「物語」ではない。
一部のマニアには受けがいいが、世の中としては完全にマニアックな部類だろう。そりゃそうだ。主流じゃないもんな。サラリと流れていく「ONE PIECE」の方が読んでいて気晴らしになるもんな。だけど、待てよ。それって単なる時間つぶしでしかないんじゃないのか。それらを読むことで人間として成長できるのか。いや、ヤツらはそんなことなんか考えたこともない。そう。1日のうちの4時間か5時間。手持ち無沙汰な時間を退屈せずに過ごせたらいいだけなのだ。先のことなんかこれっぽっちも考えちゃいない。そうだ。が、自分はどうなんだ。教養。知識。偽善、偽善。そんなものウソだ。そんなこざかしい小細工なんかいりやしない。もっと基礎になる土台、そう、柱だ。天空をどっしりと支えるアトラスの柱のような。自分の中で芯となる太い支柱。それこそがオレの求めているものであり、それを築くためにこうやって手間隙をかけて活字を読みついでいるんじゃないか。次なる一手は・・・
ということよ。
たぶん、「カイジ」にはまれる人間は芥川にもはまれる。しかも一編が短いので読みきれる。そう思うんよ。