武者小路実篤「友情」

本来ならもっと若い時に読んでおくべき本の一つだろう。短いし内容も取り付きやすいのに、なぜか今までページを繰ることがなかった。たぶん、本能的に避けていたのではないかとも思ったりする。
というのも、最初の段落である。文末だけ示して、文章のつながりをみてみる。

〜だった。〜が、〜だった。〜なかった。〜知れない。〜ので、〜していたから。〜られると、〜なった。〜ので。

「だった」の繰り返しで過去の事実を説明してみせる。そこから事件がハッテンしていくが、一種の倒置法が用いられている。つまり、いったん「行かなかったかも知れない。」と推量、というよりも回顧しながらその理由を「閉口していたから。」と句点で文を切っておいて、あらためて理由を述べるわけである。最後の二文も一緒で、「行く気になった。」「聞いたので。」と理由がすぐ後から続けられる。
これは「友情」全篇を通じて共通することで、ひょっとすると武者小路の文体なのかもしれないが、ワシは好かない。というよりも、嫌いである。
会話をしていると、往々にしてこういう構成になることがある。おしゃべりをしている時に全体の枠組みを考えてるヤツはほとんどおらん。あるとすれば、何かオチのある話でもしている時やろ(笑い)。大体は思いついたまま口にしているのではないか。「〜でなあ。それは斯く斯く然々やからね。」と後から言ったことの理由付けをすることになる。そう、この構成なのである、この作品は。
考えた上でこの形にしているとすれば、文体に対する美意識の違いですねということで終わり。そらもちろん推敲に推敲を重ねた上であることは間違いない。が、先に挙げた理由で、どうも思いつくまま書いたようにしか思えないのである。極端に言えば、素人のmixi日記と同レベルよ。あるいは、ここに垂れ流されている駄文と一緒(笑い)。
読んでいて気持ちが悪い。気持ちが悪いというよりは収まりが悪い。いわゆるチンポジがズレているような気持ち悪さ。むずがゆい。それは多分、自分の駄文を客観的に読んでいるような気分になるからではないだろうか。
そういった形の上での拒絶反応が、おそらく10年も20年もワシの中に存在していたのだろう。図書館の書架、本屋の陳列棚のうちに必ずといっていいほど並べられて、ともすれば読書感想文という無味乾燥な行為において第一の選択肢になりそうな厚さを持っているにも関わらず手にすることがなかった。食わず嫌いともいう。
オッサンになって読んでみると、こっぱずかしい内容でなあ。電車の中で読んでいると、エロ本を読んでいるぐらいに恥ずかしい。いや、やっぱりこれは20歳までに読むべきやったね。青い青い。
友情をとるか、恋愛をとるか。ワシにもそんな時代があったねと。誰にでもあると思う。そういう意味では普遍的なテーマやと思う。何遍ほじくり返してもその度に違う答えが、別の作者によって新しい提示が出されるんじゃないかと。武者小路流では、友情よりも恋愛であり、恋愛に敗れた悔しさを糧にして仕事に邁進する。キレイすぎる。あまりにキレイごとすぎる。もっと世の中はドロドロしていてグチャグチャなもんではないのか。失恋をバネに努力して出世? どこの保健体育の授業や。今の日本、そんなんバラバラに刻まれてガソリンぶちまいて火ぃ点けられるで。
さすがにそれは言いすぎとしても、武者小路は理想を描いているだけに過ぎない。そんなん、親友にこっそりと女奪われて「君の残酷な荒療治は僕の決心をかためてくれた」と芸術に打ち込むとか、人がよすぎるやろ。普通ならそこでゲイの道へ(笑い)。まあそこはお話ですから。でも、ワシが同じようなテーマで書くとしたら、絶対にこの結末にはならんな。むしろ、草を食みながら「そこまで必死になって女の奪い合いとか、オレはしない。しんどいもん。」となるん違うか。
小説としては面白かった。こういう見方もあるんやなあって。