村上春樹「1973年のピンボール」

次の本を読もうと思ったが、琴線に触れるものもなく、電車の中で読むから軽いものがいいかなと思って再読してみた。ただ再読するだけではゲイもないので、丁寧に読んでみた。
丁寧に、というのは、何度か読んでいるので筋はあらかた覚えている。だから展開よりも表現に、言葉の選択に、話題の選択に気をつけてみた。そういうことだ。
たとえば、冒頭に土星生まれの人の話が出てくる。彼の所属しているセクトは小奇麗な音楽室を備えている。そこへ機動隊が突入してきた時にフルボリュームで流れていたのはヴィヴァルディの「調和の幻想」だった。なぜヴィヴァルディなのか。そこでベートーヴェンの「運命」ではダメなのか。また、音量は小さくではダメなのか。ダメなのである。意味もなく回想を綴っているのではない。機動隊が突入してくるという緊迫した中に「調和」という有り得ない幻想。ショスターコヴィチの「戦争交響曲」でも当たり前すぎてダメなのだ。
パラグラフを読んでは意味を考えて、この心象風景の暗示していること(これはたやすく読み取れるようにできている)、音、色、数。なぜそうなるのか。立ち止まって思考する。思考の出口は簡単に見つかることもあれば、全く見当たらず、通勤電車で一人途方に暮れてしまうこともあった。
そうして進めていった結果、一つのまとまったものに突き当たったかというと、てんでバラバラのピースが床に散らかされたようで、どこからどう組み合わせていったらいいものか。またそこで悩んでしまうのである。
結局、曲がった耳の穴のように、考察の塊がつまったまま、誰か何とかしてくれ。オレはしない。しんどいもん。という状態。細かく読みすぎるのも良くないのかもしれないが、作者の意図した配置を推理しながら読むという行為自体はありだろう。