トルストイ「アンナ・カレーニナ」

アンナ・カレーニナ〈下〉 (岩波文庫)

アンナ・カレーニナ〈下〉 (岩波文庫)

かのトーマス・マンをして「全てを含んだ小説」と言わしめた大作。全てを含む? 読めば分かる。
夫婦や家族の愛情という人間の根本原理の追究は言わずもがな、ロシアにおける政治、内政も外政も。それに付随する経済、たとえば社会主義のあり方。あるいは宗教(これはおそらく家族愛の次に重要なテーマやろう)、それもワシの常々疑問に思っている「キリスト教だけが正しいのか? イスラム教だけが正しいのか? じゃあ、ホンマは何が一番正しいのか? それとも全部間違っているのか?」という一神教についての疑問。科学、文学、娯楽…。本当に何でも描かれて議論されている。
これはすごいことだと素直に感服する。あらゆることに精通すること。幅広い教養、それもハイレベルな教養を持つこと。これがどれだけ大変であるか。読書だけでなく世間話からニュース(当時はそんなもんなかろうが)まで、あらゆるものへの知的好奇心を持っていなければ不可能なことだ。ワシのように痴的好奇心ばかりではいかんということである。
しかし、「全てを含む」ゆえに弱点もある。まず分量が膨大すぎること。紙数が多けりゃいいというもんではない。もちろん、中身のない紙数ではないので、ただ単純に「ページが多すぎて読む気がしないよ」というのは単なるわがまま。が、読者の気持ちまで考慮すれば、現代においては長すぎる。書かれた当時はそうでなくとも。
トルストイは「戦争と平和」でもそうであるように、1つの作品に次から次へと要素を付け足したがる傾向でもあるのかもしれない。ワシは研究家でもないのではっきりとは言えないが。後から後から新たな要素が積み上げられていく。それで破綻しないというのもすごい。言うなら、元々が平屋建ての家に2階だ、離れだ、さらに階数増やすぞと増改築していって違法建築にならんという、その制御能力。そら当たり前のことかもしれんが、筋の通った構想が新たに1つ要素が加わるだけで破綻するということはよくあること。
そして、全てを含んでいるが、全てにおいて何か浅いなというのか、結局、作中劇とでも言おうか、徹底的な議論をするところまでに至らずに、簡略化された要旨だけで済まされてしまうのでもったいない。例えば、宗教のテーマを1つだけ取り出して、集中的に話を作ればもっと突っ込んだ内容になるだろう。が、所詮、それは方向性の違いというだけで、何らこの作品の価値を落とすものではない。


作中で目立つのは登場人物の独白とでもいうのか、心の声である。殊にアンナとレーヴィンの独白は異様ともいえるほどの長さで続けられている。ワシはここに「カイジ」を見出す。そう、都合2ヶ月近くにわたって延々とジャンケンでグーを出すかパーを出すか悩み続けるカイジの心理描写である。レーヴィンは自分に信仰がないからといって一人で延々何ページにも渡って苦悩し続ける。そして絶望に陥り、ダメだ、もうやめようと結論を出しかけること数度。しかし、その度に周りから救いの手が差し伸べられる。一方でアンナは同様に悩むが誰も助けてくれず、半ば衝動的に生を断ってしまう。その対比。これがトルストイの結論とでもいうのか、人間として進むべき道筋を示してくれているのではないかと思う。不倫がいかんとかそういう低レベルの話ではなく、人間は誰しも悩みを抱えているものであり、一人では解決できない。人間が社会性動物であるゆえに、周囲からの助けが不可欠であり、支えあって生きていくべきなのだと。それを拡大していくと、個人にとどまらず国家単位でも同じことがいえるんではないかと。まあ、そういうことよ。半ば自宅警備員なワシとしては反省しきりである。